根源へ

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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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第3回「根源へ」展出品者の解説(6)黒沼大泰② sasayama URL

2018/04/21 (Sat) 22:09:11


黒沼君のやろうとしてることは、一見伝統回帰的で紋切り型のように見えるかもしれないけれども、
実はそうではなくて、図像の作り方などはコンピュータのシステムを活用して、
見え方としてはやはりどこか「見たことがない」と感じさせるところがあります。
言い換えれば、コンピュータの機能を使わなければできない図像を作っているわけです。
彼の場合、コンピュータの導入は決して作業の効率化のためではなく、
図像の創作の本質的な部分にかかわっています。

しかし他方で、金箔をピカピカに磨いていくために、メノウ棒という道具を使って手作業を積み重ねていく、ということもやっている。
コンピュータによる加工と手作業、伝統的な素材・技法と現代の素材・技法とのミックス、といったことに黒沼君は十分に自覚的なのです。
そしてそこに彼の絵画創作の新しさを認めることができます。

一見伝統回帰的で紋切り型のように見えながら、そのような見かけを通して実は日本の新しい絵画を作っていこうとしているのだと、私は見ています。

画像は、多摩美術大学内で開催された卒業制作展のときの作品展示の様子を写したもの。

第3回「根源へ」展出品者の解説(5)黒沼大泰① sasayama URL

2018/04/12 (Thu) 17:53:14

今回の「根源へ展」の出品者のことは昨年の秋に一度紹介してますが、
黒沼君については、「花鳥風月という伝統的な美術表現が現代の日本人の美的感性のリアリティを形成している」として、そのリアリティに立ち向かっていく道筋にも現代美術のひとつの方向があり得るといった意味のことを書きました。
具体的には、「光琳から始めるべき」ということで、当時彼は4年生で卒業制作にとりかか
っていました。
梅の木をモチーフに画面全面に金箔を貼り、図像の部分はアクリル絵の具で描くという方法で、縦横120cm弱の大作です。

一見伝統的な花鳥画のように見えるのですが、アクリル絵の具で描かれた梅の木の部分と金地との対比で空間の奥行き感や木の存在感をアピールしていたり、
絵を作っていく過程でコンピュータを活用しつつ、他方で伝統的な技法を手作業で積み重ねていくなど、さまざまな工夫が見られます。
それが何か今までにないビジョンを創り出しているように感じられます。

ただヴィジョンが新鮮というだけでなく、「絵画の在り方」ということについても一石を投じています。
というのは、金箔の光を反射する性質をポジティブに捉えて、作品の要素として内在化していると思われることがあるのです。
たとえば、スポットライトを当てると、作品の中に反射光の輪のようなものができますが、
彼の作品の場合、それがもうひとつ別な絵画作品のように見られるのです。
また、斜めの角度から見ると、梅の木の図像が画面全体が光り輝く中に、まったく違ったイメージで見えてきたりします。

まさに作品が置かれている周囲の環境を、光を媒体として取り込むことによって、
さまざまに変幻していくわけです。
絵画を単に均質な光の中で固定的に見るのではなしに、環境とともに在るものとしてみていく、
そこから「生活に結びついた絵画」のひとつの可能性が提示されているように思われるのです。


掲載画像は黒沼君の卒業制作作品で、スポットライトの反射光がなにやら意味深な雰囲気を醸し出している例。


「根源へ展」の開催は
4月23日(月)ー28日(土)
ギャルリ・プス 中央区銀座5-14-16 銀座アビタシオン201
最終日午後3時よりトークセッションあります。


第3回「根源へ」展出品者の解説(4)仲田有希② sasayama URL

2018/04/06 (Fri) 17:50:57

掲載画像の作品「庭へ」は油彩画で、一見したところでは特に変わったところのない普通の絵のように見えます。

少し分析を試みると、まず第一に、実写した絵ではなく、描かれているシーンは想像上のものであると見なすのが自然でしょう。
窓が描かれていて、手前が室内と想定されます。そして何本かの百合の花が窓から侵入してくるような光景として描かれています。

実写の絵ではないので写実画とは言いがたく、空想上の、あるいは装飾的な効果が意図された絵と見なせるでしょう。
おそらくこの絵は、アタッシュケースの内部に描かれることを想定して描かれたのではないかと、想像することが可能です。
そういうことを意図して描かれた、装飾的な絵と見ることが可能です。

前回書いたように、作者仲田さんは、絵を四角い額縁の中に収めて見るものとして考えていません。
とりあえずはアタッシュケースの内部を装飾する絵として、あるいは、アタッシュケースによって持ち運びされる絵として構想していると思われます。

絵それ自体の中にも、いわば限定された縁とか枠とかの境界を逸脱して、内と外(室内と庭)を自由に行き交うような、運動の在りようが空想されているように受け取れるのですね。
境界を曖昧化する、あるいは境界を消去する、そのような行為や意図において絵作り(表現)を成り立たせようとする、
そういうたくらみが仲田さんの創作のテーマとして考えられそうです。

境界の曖昧化というテーマは、まさに日本文化の伝統に深いルーツが認められます。
最近私が得た知識ですが、古代の平城京には城壁が作られなかったということですが、
城壁のない古代・中世都市というのは、世界の歴史においても、他に例を見ないとのことです。
日本の文化的風土において、境界の曖昧さということは、すでに古代の時代から実現されていたのですね。

掲載画像は、仲田有希作「庭へ」油彩画

第3回「根源へ」展出品者の解説(3)仲田有希① sasayama URL

2018/03/30 (Fri) 16:06:29

仲田有希さん(油画専攻4年)は、『現代工芸論』の中で特に造形論で論じられる「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に関心を抱いたようです。
過去2回の「根源へ展」でも毎回この命題に関心を向けた学生がいましたが、
そのアプローチはそれぞれまったく異なっています。
ある意味、抽象的なテーマなので、解釈も多様にありうるのですね。

仲田さんは、物質と意識(精神)が交感するような事態としてイメージしたようです。
講義のレポートではこんなふうに書いていました。
「物質と人が交差するとき、「“何か今明らかに違うものになった”と感じられることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも、それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾く時なのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作るときの目に見えづらく、言葉にしがたい神秘だと思っていた。」

リーフレットに掲載している作品写真は、壁面を利用したインスタレーション風の作品です。
床の上には、仲田さんが自分で作ったアタッシュケースが置かれています。
その中には絵が描かれているのですが、アタッシュケースの制作の意味を以下のように書いてます。
「アタッシュケースの持ち手を握ることで、絵画と手を取り合うといった意味を含ませた」
アタッシュケースの持ち手を握るということは、アタッシュケースを持ち運ぶということです。それは「絵を持ち運ぶ」ということでもあります。

“絵画”を四角い額縁の中に収めて鑑賞するものとして固定的に捉えずに、
持ち運べるもの、としても考えてみる。
ここに“物質の限界を超える”という命題とのかかわりが読み取れます。
もっとも、アタッシュケースの中に描かれた絵、ということでは、
モノを装飾するはたらきのあるものとして絵画を見ているに過ぎないのでは、と思われるかもしれませんが、
そうだとすれば単なる装飾画あるいはイラスト絵画ということになるのですが、
仲田さんが考えていることはそうではなくて、
人の生活一般とか、行動とか、そういった意識の運動の中に差し挟まれていく絵画、といったようなニュアンスで考えているように思われます。

ちょっと微妙ですが、それがどういう意味合いを持ってくるのか、
次回、さらに考えていくことにししましょう。


画像は壁面を使ったインスタレーション「自由と束縛」

第3回「根源へ」展出品者の解説(2)寺松尚美② sasayama URL

2018/03/22 (Thu) 17:55:19

出品者の作品資料としてこれまでに制作してきたものの画像データとコメントを、
各出品者から提供してもらったのですが、その際、寺松さんが送ってきた画像には、
それぞれに短いメッセージが添えられていました。
それをここで紹介しておきます。

「咲き続く」(前回画像を掲載した作品)には、
「私たちは変化していくが、存在していた一瞬一瞬は記憶の中で生き続ける。
花のように咲くその記憶をいつまでも忘れないことで、私たちは安心してその手を握ることができる。」
「柱になる」(今回掲載の作品)には、
「私たちには木の幹のような変わらない部分がある。
人は常に変わっていくが、その部分を忘れないようにしたい。私たちは安心してその手を握ることができる。」

これをどう読むかということですが‥‥、
寺松さんの創作がこれからもずうっと続いていくとしたら、
何十年も先になってこのメッセージを読み返したときに、
ここに寺松さんの創作の軌跡を貫いてきた根本的なテーマが、
凝縮して表現されている、というふうに読めることでしょう。
そういう観点から、このメッセージに込められている寺松さんの根本テーマはなんだろうかと憶測してみるのも、興味深いものがあります。

六十数年を生きてきた私が思うに、若いときの記憶を維持していくことは、
それがよほど強い印象で残っていない限りは、はなはだ困難なことです。
人には「木の幹のような変わらない部分がある」ことは確かですが、
「変わらない部分」の認識の仕方、あるいはその意味付けはやはり変わっていくのが一般的です。
その場合に「変わらない部分」と思っていたものは、どうなっていくのか?

「変わらない部分を忘れないようにしていく」こと、「記憶をいつまでも忘れないでいること」とは、そのような意味でとても困難なことなのです。
しかしその困難さに立ち向かって、いわば“忘却”いう事態と戦っていくことが、
まさにアートと呼ばれるものの営みにほかなりません。
忘れさえしなければいい、というものでもありません。
そこに新しい意味を見出しながら記憶を更新していくという形もありえます。

そうして「安心して手を握る」世界が実現できたら、
それはとても素晴らしいことであると思います。

画像は寺松尚美作「柱になる」
展覧会の詳細は上記「URL」(タイトル欄の中)からアクセスできます。


第3回「根源へ」展出品者の解説(1)寺松尚美① sasayama URL

2018/03/16 (Fri) 16:32:03


これから来月の「根源へ展」の開催間近あたりまで、出品者の作品やコメントをめぐって、
思うところを書いていくことにします。

トップバッターは寺松尚美さん(工芸学科ガラス専攻4年)です。彼女が「現代工芸論」から得たことは――、
工芸の全体は「民衆の生活に即した用の美を目指すもの、国家的事業あるいは権力者のステータスシンボルとして美の究極を追求していくもの、個人による創作、の3つの分野に分けられる」として、そのことを踏まえた上で、「自分が作ろうとしているのは何なのか」を問いかけるものでした。

現代工芸の分野では、工芸と美術はどう区別されるのか、ということがよく話題になります。
たいていは、「使えるものを作るのが工芸」、「使えないもの(用途のない純粋に美的なもの)を表現するのが美術」というふうに区別されるのですが、
現代工芸の分野では「使えないもの」も“オブジェ”と称して創作する一方で、オブジェか器的なものかどちらかに創るものを限定すべきではないか、という考えも頑なにあるようです。

私はこのような二者択一的な限定を強いるのは、今日の工芸的創作においてはほとんど無意味であると考えています。
オブジェには鑑賞物という用途がありますし(現代工芸で使用される“オブジェ”と、現代美術の“オブジェ”とは意味内容が異なっています)、
器の形には用途を超えた美しさを有することは、改まって言うまでもありません。
そもそも古典の時代から「工芸品」とみなされてきているものが工業製品と違っているところは、
それがなにがしか特殊な状況下で作られてきている点にあって、
民芸派の人々が“雑器”と呼ぶものも、彼らの審美眼によって選別されてきたという特殊事情を担っています。

個人による制作ということも、ひとつの“特殊的状況”なのでありますから、器のものを作るにしろ、オブジェ的なものを作るにしろ、“個人”という創作主体の特殊性を踏まえた上での制作であればなんでもいいんじゃないですか、というのが私の見解です。
寺松さんはその考え方を取得して、自分の進むべき方向を探り出していこうとしているのだと思います。


画像は寺松尚美作のガラス作品「咲き続く」
展覧会の詳細は上記「URL」よりアクセスできます。

「第3回根源へ展」Part Ⅰ-3のお知らせ sasayama URL

2018/03/11 (Sun) 18:45:05

「第3回根源へ—―『現代工芸論』から生まれてきたもの」展Part Ⅰ-3]

会期———— 2018年4月23日(月)ー28日(土)
会場————ギャルリ・プス
出品者———黒沼大泰(油画)・寺松尚美(ガラス工芸)・仲田有希(油画)
※ 会期中の1日、ギャラリートークを予定しています。

詳細は「かたち21ホームページ」(タイトル欄の「URL」からアクセス)をごらんください。

「両義性」について(5) sasayama

2018/03/03 (Sat) 16:45:09

両義性などという言葉を使うと、何かムズカシイことを言ってるように聞こえるかもしれませんが、
われわれ日本人は昔からそのような思考方法で生活したり文化を創ったりしてしてきたと私は思います。
そういったことを言い表している文章に出会うこともよくあることですが、
ここでもその一例を、今私が読んでいる本から引用しておきます。

高取正男という、民俗学分野の俊才学者であった人の『日本的思考の原型』(平凡社ライブラリー)という本の中の文章です。
「前近代の論理と志向は、分析的言語と概念による近代人のそれとは、およそ次元を異にしている。ことがらの孕んでいる相互に矛盾しあう側面、たがいに背反しあう諸機能も、ことがらのありように即して全一的に把握されている。分析にもとづく諸概念の提示ではなく、比喩による全体の捕捉と、事物による象徴とが、思考作業の根幹である。
主婦権というとき、主婦が家庭内で日常的に担っている権利と義務、家庭管理の業務内容を分析的に列挙するのが、いまのやりかたである。むかしの人はそうではなかった。彼らは彼らにとっての主婦の全体像を、生身のままシャモジという事物によって象徴し、それでもって納得し、了解したと考える。シャモジ自身に呪的霊能がみとめられたのも、それが如上の思考方式に支えられ、シャモジが主婦そのものの姿として承認されて、両者の間に霊的交流と交感があると信じられていたからである。」


「両義性」について(4)ーー論理学の観点から sasayama

2018/02/22 (Thu) 17:44:45


Pと¬Pの関係は、一方が真であれば他方は偽である、という関係です。
なので、Pが真であれば¬Pは偽、Pが偽であれば¬Pは真です。
(それゆえに論理学では、「Pまたは¬P」は常に真であるということが認められていて、これを排中律と読んでいます。)

そこで「PならばQ」のQに¬Pを代入すると「Pならば¬P」となり、
通常の論理学では、Pが真であれば「Pならば¬P」は偽であり、
Pが偽であれば「Pならば¬P」は真となります。

Pが真で「Pならば¬P」が偽の場合はしかし、「¬Pは偽である」ことは真であると見なすならば、
「Pならば¬P」は真である、と解釈することも可能なわけです。
言い換えると「〈Pが真ならば¬Pは偽である〉は真である」ということになり、
その場合には「Pならば¬P」は常に真であることになるわけです。

これは、論理学の世界では矛盾律に反しているように見えて、
ナンセンスとしか言えないかもしれません。
しかし現実の世界では、「Pならば¬P」が真であることは、
明らか(自明的)に真実であると私は思います。
これが本当の、つまり現実に即した“リアルな”論理学ではないかと私は思うのですね。

結論を言えば、「両義性こそがリアルであり、且つ「現実の論理である」ということです。


「両義性」について(3)ーー論理学の観点から sasayama

2018/02/15 (Thu) 17:27:54

両義性の意味は「一つの事態の中に相反する二つの意味が認められること」とすると、
論理学ではそういうのを矛盾律といって、そういう事態は常に偽であるとされています。
つまり、ある事態をPとしてその否定の事態を¬Pと表記すると、
「P且つ¬P」とか「P=¬P」といったことは絶対にありえず、「常に偽である」とされるわけです。
これに対して両義性というというのは、「P且つ¬P」とか「P=¬P」が
成り立つこともあるということを主張するものです。

論理学が言うところの論理というのは、「ならば」という接続詞を使って
たとえば「PならばQ」という文のフォーマットを積み重ねていって
論理を推進していくわけですが、Pが偽の場合は「PならばQ」は常に真である、
ということが認められています。
そこで、いま仮に「P且つ¬P」や「P=¬P」をPと表記するとして、
「PならばQ」という文は、論理学的には「常に真である」
ことになります(Pは常に偽であるので)。
これが意味することは、両義性を仮定として推論される事態は、常に真であるということです。
ここでの話題でいえば、江尻氏の言う、
「闇は未出現の光である。」
「闇の中で光と影は未分化でありながらふたつのはたらきとして絶えずせめぎあっているが、それが物質の誕生により二つに分かれる。」
「影の中に光が入り込む。これは「響き」となるはずだ。」
などは、すべて真なる命題であるということです。



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