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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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“空”と民主主義[3] sasayama

2017/11/23 (Thu) 11:52:04

空外さんの「一者を生きる」を私は「個人として生きる」と表現しています。
意味はほぼ同じと思っているのですが、空外さんの場合はそのよりどころに「念仏を唱える」ことを置いています。
私は民主主義というところに拠り所を求めています。
個人が成立するための社会的システムとしての民主主義です。
そして私の考えでは、“空”と民主主義はリンクしているのです。

民主主義の根本理念は、18世紀のフランス革命やアメリカの独立戦争で標榜された「自由・平等・博愛」ですね。
19・20世紀を経て現在に至るまで、民主主義の理想がさまざまな時代状況の中で、あるいは世界中のさまざまな国家や民族や地域において、模索され、試行錯誤されてきています。
日本国の現憲法は現時点でのその到達点であり、その意味で個人が「自由・平等・博愛」の下に生きていくための社会システムの、現時点で手に入れ得る民主主義の最先端の思想と言えます。

日本国憲法を押し付け憲法だという意見がありますが、そう考えるべきではないと思います。
なぜかというと、国家や民族といったものの自発性の根拠となるものが無いからです。
国家の実体とかアイデンティティといったものは、虚構として以外にはありえないからです。
“一切皆空”ということが「個人として生きる」という立場からの実相です。

日本国憲法は人類が獲得した民主主義思想の現時点での到達点であり、
これを実践し護持していくミッションが日本人に担わされているのです。
それは人類史の視野の中での歴史的ミッションです。
このミッションを放棄することは、今後グローバルなレベルで展開されていくべき民主主義の更なる発展を、後退させていくことになります。

「個人として生きる」ことの基盤をなすのは民主主義のシステムであり、
その最先端的表現としての日本国憲法は堅持されるべきであると考えます。
日本国憲法は一国家の政治的・倫理的規範というよりは、ゆくゆくは人類全体の憲法として普及されるべきものであると考えます。

“空”と民主主義[2] sasayama URL

2017/11/16 (Thu) 17:30:20

“空”といえば大乗仏教系仏典中の般若経典が唱える「色即是空空即是色」や「一切皆空」が思い起こされます。
私が敬愛する書家は井上有一ですが、有一さんに並んでもう一人、山本空外(故人)という人の書蹟にも大いなる尊敬を抱いています。
浄土宗の高僧だった人ですが文章もたくさん書いていて、その中に「一者を生きる」というのがあります。

「一者」という言葉の意味は西洋中世の哲学者プロティノスの著作からとって、「いたるところにあるのみならず、しかもどこにもない」存在とし、
これをさらに大乗仏教八宗の開祖といわれるインドの哲学者龍樹の「中道を行ずる」という言葉にリンクさせて、「一者を生きる」ことの意味を空外さんなりに説いています。

「中道を行ずる」というのは、龍樹が書いたといわれる『大智度論』の中の、次の文章の中に見られます。
「この般若波羅蜜も是れ一辺、この般若波羅蜜に非ざるも是れ一辺、この二辺を離れて中道を行ずる。これを般若波羅蜜と名づく。核の五時等の二門もて無料の般若波羅蜜の相を高説す。」

そして結論は、
「いたるところにある」のを、色とすれば、「どこにもない」のは、空にあたることになる。しかもこの一者の両面をば、「空こそ色なれ」という一句ほど、きびしくとらえ、いいかけて、われわれ一人ひとりなりに、人生の根本義をさとらしめずにはおかないほどの名言が、世界所文献のどこかに、またとあるであろうか。」
となるわけです。

「一者を生きる」とは空を生きることであり、空を生きるとは「空こそ色なれ」という意味での色を生きること、すなわち「一人ひとりなりのいのちが実っていく」ことであるとするのが、空外さんの思想です。


画像は、山本空外の書「生一者」

“空”と民主主義[1] sasayama URL

2017/11/09 (Thu) 18:00:13


反コンセプチュアリズムとは、「コンセプトが無くても表現は成り立つ」という意味ですが、
「コンセプトが無い」状態とはどういう状態かと言うと、それはいろいろ考えられるけれども、
それをいちいち考えていくのも煩雑なだけなので、いっそのこと「何も無い状態」ということにしておきましょう。
「何も無い」とはつまり“空”ということであると、ここでは単純に考えることにします。

さらに「空とは何か」ということになると、おそらくいろんな人がいろんなことを言うでしょうけれども、
何が本当のところかについては、その正確な判断は誰にもできません。
逆に言えば、どういうふうに説明しても、それを間違っているとは言えないし、正しいと言い切ることもできません。
別な言い方をすると、どれも正しいとも言えるし正しくないとも言えるということです。
私たち一人一人の立場で言えば、どの考え方を支持するかしないかということを、各人が自分で考えて決めていくしかないということですね。

とはいえ、ここでひとつ、“空”について間違いなく言いえることとして、次のフレーズを提示したいと思います。
それは当コラムでも何回か前に一度紹介しましたが、私が信奉している論理学者の本の中に書かれていたことで、

  「空集合の情報量は、情報空間の全体になる」

というものです(本橋信義著『現代論理学入門』岩波書店刊)。これは論理学的に証明できる“論理学的事実”とされているので、だれでもが認めるしかありません。
この事実が示唆する教訓として、“空”は何も含まないが、その情報量は“空”についての情報空間全体になるということです。
つまり、“空”をめぐって発せられたあらゆる言説は、それが正しいか正しくないかにかかわらず、“空”についての情報と見なすことができるということであり、
この意味で、「一切を含んでいる」とも言えるということです。
要するに、何でもありということですね。

かくして、「反コンセプト→“空”に委ねる→何でもあり」の精神で行く、ということがひとつあり得るのではないかと思う次第です。

反コンセプチュアリズムについて sasayama URL

2017/11/04 (Sat) 16:26:47


(承前)
とはいえ、私は造形表現におけるコンセプチュアリズムを全面的に支持するわけでも、信奉するわけでもありません。
むしろ、「コンセプトの無い表現は意味がない」という教条主義的な考え方には反対であって、「コンセプトが無くても表現は成立する」と考えています。
たとえば、アウトサイダーアートと呼ばれる、心身に障害がある(とされる)人たちの創作物が
見る人に理屈を超えた感動を与えてくれる事例は、今日では無数といっていいほどありますが、
その人たちの創作物がなんらかのコンセプトの賜物であると考えることは無理があると思います。
コンセプトではなく、心身の奥底からのやむにやまれぬ表現の、あるいはひとつの作業を延々と繰り返していく(生きていることとしてのリズムの生成と繰り返し)ことの、
結実としてのアートということがありえると考えられます。

また、直感や情感や霊感、また言葉を超えた心のはたらきをソースとして生まれてきたアートの事例も数え切れずあります。
そういった例から、コンセプトの無いアートは意味がないとは到底言えないでしょう。

コンセプトはなくても、その人の思想(生き方)というものはあります。
感覚的、情緒的な表現であっても思想や哲学は成り立ちうるのです。
表現の行為、そして表現されたものから、その思想や哲学を探っていくのが評論行為と言えるでしょう。
なのでそれさえ無いということになれば、それは確かに“無内容”と評さざるを得ないということになります。



コンセプチュアリズムについて sasayama URL

2017/10/26 (Thu) 17:42:53


現代美術の基本的な特徴としてコンセプチュアリズムということが言われます。
なぜコンセプチュアリズムなのかというと、そもそも現代美術の成り立ちが、
「美術とは何か」という問いを発したところから始まっているからです。
それを追求していくプロセスでは、当然、否定や破壊の局面を取り込んでいくわけですね。

さて、現代工芸はという分野は、20世紀の現代美術を追っかけて「前衛工芸」というところから始まり、
既成の「工芸」の否定として「用途の否定」ということを標榜したわけです。
それはそれで、20世紀段階においては大きな意味をなしたと言えますが,
今日の現代工芸には、「工芸とは何か」を問うていこうとする意識が欠けているように思います。

つまりコンセプチュアルということが感じられず、ただ見た目の「工芸素材による造形表現」とか、「超絶技巧」とかを漫然と反復製造しているだけなのです。
なので“オブジェ”などという類のものも、私には単なる「現代風飾り物」にしか見えません。

「工芸とは何か」を問うということは、今日でもとても大きな問題を孕んでいるように私には思えます。
それは、現代という時代の中で何をどう創っていくか、ものづくりとしてどう生きていくかを問うことにほかなりません。


「空」についての話題―—石田明里さんの個展のステートメントから(承前) sasayama

2017/10/18 (Wed) 17:47:46

石田さんの、個展のためのもうひとつのステートメン「Null-Land 座標ゼロ」は以下のように書かれています。

パブリックドメイン(公有コンテンツ)の世界地図データNatural Earthに設定されている北緯0度・東緯0度の架空の島Null-Islandをインスピレーションソースに、陶淵明の桃源郷について考えてみる。
桃源郷はいわゆるトマス・モア的“ユートピア”では無く、理想社会の実現に向けた主体的意志を受け付けない。目的を持って追及したのでは到達できない場所なのである。
心の外にそれを求めて探すと見つからず、既に人々の心の内にある存在を具現化したものが桃源郷であり、地上の何処かではなく、魂の奥底に存在しているといわれている。

Null-Islandだのユートピアだの桃源郷だの(ついでに言えば、無何有郷というのもあります。これは『荘子』の中に出てくる理想郷です)石田さんがどういうことに深い関心を寄せているかがよくわかるキーワード群です。
これもやはり、その根っこには「空」への関心があるだろうというのが、私の読みです。

ジュエリー作品を制作する、これは物質的世界とかかわることであり、物質というリアルな存在にかかわる限りは、非空の世界の中で感じたり作ったり考えたりするわけです。
もともと石田さんの身体の中のどこかに「空」の観念の種子のようなものがあって、それが芽吹き始める。
「空」の芽吹きをなんとなく感じながら、物質の世界に身を置いていることが必ずしも拘束とは感じられない。
むしろ逆に、ある種の自由感、解放感のような空気が身を浸してくるのを覚える。
それが何か作品制作に向かう気持ちを掻きたててくるようである‥‥。

なんかそんな気分じゃないのかな、このステートメントに漂う気配は。

今年の春に彼女が私に送ってきたメッセージの中に、秋開催予定の個展に向けてのヴィジョンのようなことが一言書いてあって、次のような一文があったことを思い出しました。
「テーマは「窓」で、宗教建築などに見てとれる開放口としてのメタファー(こちらが行くのか向こうから来るのかはわかりませんが)が題材になっています」

このあたりから、作品論の領域に入っていけそうですが、その機会はまた改めて、ということにしたいと思います。

「空」についての話題―—石田明里さんの個展のステートメントから sasayama

2017/10/12 (Thu) 20:21:19

私が主宰している「かたち塾」は、開催のつどその内容についてKATACHI-JUKUという印刷物で報告しているのですが、
その印刷物のNo.10(2017年3月1日発行)では巻頭の所感に、“「かたち」を超えて「空」に至る”とタイトルした文章を書きました。
今年に入ったあたりから、「空」ということが少し感覚的に馴染んでくるようになったようです。

コンテンポラリー・ジュエルラーの石田明里さんがその文章を読んで興味を覚えたらしく、彼女から連絡がありました。今年の春のころの出来事です。
それから半年後のつい先日、石田さんが東京・青山のギャラリーで新作の個展を開かれました。
ガラス素材によるブローチやイヤリングを発表していました。
そのときに新作のコンセプトを表したステートメントが書かれており、それは私には大変興味深く感じられました。
ステートメントは二つあって、どちらも短いものですが、タイトルだけを紹介しますと、ひとつは「Imperfection 不完全」もうひとつは「Null-Land 座標ゼロ」というものです。

「Imperfection 不完全」は以下のような内容です。
   肉体的生命を維持して行く為の
   細胞の完璧な調和が必然だとすると。
   感情の移ろいや揺らぎはどうしてこのように
   砂浜を舐める波の泡のように常に有機的で
   完璧な箱の中身をゆさぶり続けるのか?

私が特に興味を覚えたのは、「完璧」「完全」といった言葉が使われていることです。
「人間の精神の完全とは何か」という問いかけは、現代においてはめったにお目にかかることがないのではないかと思います。
かと言ってこれはいわゆる完全主義者・完璧主義者の言葉でもないように感じられます。
つまり、完全とか完璧とかを、目指すべき目標のように設定しているわけではないということです。
むしろ「砂浜を舐める波の泡のように常に有機的」という言葉を対応させることで、
何かもっと別なことに照準が当てられているように感じられます。

私が推測するに、「完璧」「完全」といった言葉の裏側にあるのは「空」ということではないかと思います。
あるいは「空」という言葉で言い表されるような事態が、石田さんの中で蠢き始めている、といったことを予感させます。


「空」には部分がありません。
「空」の思想を説いた仏教の般若経系の経典の中には「一切皆空」という表現はありますが、「部分的に空」とか「一部空」といった表現はありません。
「空」は「一切」とか「完全」といった言葉に対応する概念です。
All or NothingのNothing ですね。

私が信奉している或る論理学者の著書の中にこんな文があります。
  「(任意の情報空間において)空集合の情報量は情報空間全体になる」

「空」は何も無いことではありません。むしろ一切を含むんですね。
この意味で、「空」は「砂浜を舐める波の泡のように常に有機的」な世界と、誤解を恐れず言えば、同じと考えることも可能です。

以上、石田さんの言わんとするところとちょっと違うかもしれませんが、このステートメントを読んで、私が最初に直感的に感じたことです。


画像は個展に出品されていたブローチです。

「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介[4]] - sasayama

2017/10/04 (Wed) 22:00:36

油画4年の黒沼大泰さんのレポートのタイトルは「取り合わせの美――生活の文脈から切り離された「美術品」について」というものでした。
“取り合わせの美”というのは、『現代工芸論』の中で、日本的造形美の特徴は“取り合わせ”ということの中にあるということを論じ、西洋近代美術の成り立ち方とは異なっているということを主張しているところから引いてきています。
美術というものを、西洋近代の純粋造形志向から現代の市民生活の文脈と結びついた作品を創っていくということが、絵画の制作モチーフとして意識されているということです。

わかりやすく言えば、売れる絵を創っていこうということですが、そのように表現すると美術の世界では未だに反発をくらいそうなところがあります。
しかしプロの仕事というのは、その仕事が生み出すもので生活をしていくことが原則であると私は思いますし、またそうでなければ、市民社会の中では一人前の社会人として認めてもらえません(“先生”などといった敬称を付けられて、敬して遠ざけられる存在に甘んじることになります)。
黒沼くんは『現代工芸論』が提起している事柄をより積極的に受け止めて、現実の社会の中での美術の在り方を考えていくという方針を堂々と打ち出していると私は受け止めました。

レポートの中で黒沼くんは「日本人の庶民的、一般的な美意識は花鳥風月のまま、つまり江戸時代のまま止まっている」と書いてますが、それは確かに一面の真実と言えます。
美術業界(黒沼くんは“ムラ”と表現してますが)の中では現代美術のような先端的な美術が追っかけられたり、その中でいきがったりしてますが、一歩外に出ると、やっぱり花鳥風月であり、伝統工芸なんですね。
逆に言えば、そういった花鳥風月や伝統工芸にこそ現代日本人の美的感性のリアリティが厳然と居座っているとも考えられるわけです。

それはとても巨大な、岩盤のようなリアリティであって、そのリアリティに立ち向かっていき、そこから“現代性”への通路を切り開いていこうと志すところに、本当の意味での“日本型現代美術”の展望とスリルがあるのかもしれません。


画像は金箔を使って3次元空間の表現を試みる絵画作品


「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介[3] sasayama URL

2017/09/28 (Thu) 17:44:26


油画3年の仲田有希さんのレポートは、『現代工芸論』中の造形論の展望をめぐっての「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に対してコメントを書いています。
これは大変難しい命題で、どう解釈するか、「これが正しい解釈」というのはないのです。
この命題に興味を覚えた人それぞれが、自分なりの解釈をすればよいと思います。

仲田さんは大学の課題の中の制作で、アタッシュケースの内側に絵を描いた作品を作ったことを報告しています。
「アタッシュケースの持ち手を握ることで、絵画と手を取り合うといった意味を含ませた」ということです。
物質と人が交差するとき、「“何か今明らかに違うものになった”と感じられることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも、それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾く時なのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作るときの目に見えづらく、言葉にしがたい神秘だと思っていた。」

『現代工芸論』は上記のことを意識するきっかけになったようです。こんなふうに続けています。
「『現代工芸論』の最後138ページに、「そのためには物質としての絵の具の動きや変化を注意深く、きめ細かく観察することが不可欠であり、そのような作業が物質の限界を超えていく条件となる」と書いてある。
物質を遊ばせるのではなく、全てを観察することでまた支持体となる(または芯となる・核となる)物質の下に、薄くて強固な基盤が出来る気がした。」

物質と人間がいわば交感の作用をなすという神秘的とも感じられる事象に着目して、そこに造形表現への基盤を見出していこうということでしょうか。
そのアプローチの中から、物質と人間の関係をめぐる新たなビジョンが開けてくる可能性が期待されます。


画像はアタッシュケースを含むインスタレーション風の作品。2年時の制作。タイトルは『自由と束縛』。「精神哲学や肉体の感触、宗教観や死生観が見え隠れする作品を作っている」と自解している。


「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介 sasayama URL

2017/09/14 (Thu) 17:34:25

多摩美術大学での講義「現代工芸論」の2016年度聴講学生による「『現代工芸論』から生まれてきたもの――根源へ」展の出品者が決まりました。
工芸学科から1人、絵画学科油画コースから3人の計4人で、展覧会は来年の春、銀座のギャルリ・プスで開催を予定しています。
これから出品者を一人づつ、講義およびテキスト『現代工芸論』と各出品者とのかかわりを軸に、紹介していきましょう。

寺松尚美さんは工芸学科ガラス専攻の3年です。
「現代工芸論」のレポートに書いていたことは、工芸の全体は「民衆の生活に即した用の美を目指すもの、国家的事業あるいは権力者のステータスシンボルとして美の究極を追求していくもの、個人による創作、の3つの分野に分けられる」として、そのことを踏まえた上で、「自分が作ろうとしているのは何なのか」を問いかけるものでした。
そしてこれに対して自分で出した答えは、
「これからも工芸作品を作っていく。用の美としてのものも、アートよりのものも作るだろう。その時に自分の気持ちが追いつくように、その工芸のジャンルの良さを引き出せるように制作したい。変化する工芸、考えることを止めずに工芸の美しさを引き出せればと思う」
というものでした。

昔(1970~80年代まで)は、工芸は使えるものを作る分野のモノづくりであって、当時オブジェ工芸を作る人もいましたが、そんなのは工芸ではないとする意見も強くありました。
現代は、そういった区別の仕方にこだわる人は見当たらなくなり、オブジェでも器のものでも自分が作りたいと思うものを作ればいいのだ、と考える人が大勢を占めているように感じられます。
そういう中で寺松さんの考えが特に目新しいというわけではありませんが、
ただ単に「作りたいものを作る」というのではなくて、もともとの「工芸の由来」ということを頭に入れて、その上で「時に応じて器のものもつくるし、アート的な表現のものも作る」と、自分の制作姿勢を反省的に捉えているところが、
実際にものを作っていく上で意識の差というものを生み出すだろうと、私は思います。

自分の創作の方向性を見定めるということですね。
「何を作るのか」という問いを明確に自覚して、苦しみながらでも一歩一歩歩みを進めていく姿勢が、ただ単に「好きだから作る」というのとは違って、「アートとしての工芸」の世界を開いていくだろうと思われます。
寺松さんの制作にはそこのところを注目して見ていきたいと思っています。

写真作品は「柱になる」 ガラスによる造形


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