根源へ

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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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「根源へ」展終了報告 sasayama URL

2017/05/10 (Wed) 17:14:24

「根源へ――『現代工芸論』から生れてきたもの」は先月29日に無事終了しましたが、
続けてもうひとつ別の企画催事(中野みどりの「紬の会」)を開催していたため、
「根源へ」展の終了報告ができずにいました。
「紬の会」も終了して、やっとできるようになりました。

展覧会の会期中に新たな事態が発生したりしました。そのことについて報告して、全体の総括に代えさせてもらいます。

磯崎君は、来場者がいない間、A5サイズのスケッチ帳に、サインペンでずうっと絵を描き続けていました。抽象だの具象だのイラストだの、手が動くままに淀むことなくスラスラと描き続けていました。
よくそんなに描き続けられるもんだと私が言うと、シリコンを素材とした作品の制作後、「絵が描けるようになった」とのこと。
今後、立体の方向に展開していくのか平面に戻っていくのかわかりませんが、よい傾向であると私は思いました。

片山君は、自分の作品を説明するときに、「大気・空気の精神性を表現したい」という言い方をしました。そんなことは準備中に聞いたことがなかったので、今まで表明しなかったのはなぜかと問い質したところ、「言葉にすることを避けていた。今は、テーマに正面から向き合うために言葉に出すことにした」という返事でした。これもやはり、一つの作品を作り切ったことで開けてきた心境と推察されます。その意味では、とてもよい傾向であるといえます。

塩田さんは全部で7点の出品作中メインとなる作品で、現時点での自分の到達点を示していました。油絵具の発色が鮮やかで、且つ陰影のメリハリがあって、「絵を観ることの愉楽」を呈示していたように思います。リーフレットに掲載した作品もよかったのですが、そこから更にもう一歩作行きを進められたようです。

2回目の展示は3年後を予定しています。3年間でどのように成長していくか、楽しみにしたいと思います。


画像は会場風景

物質と人間が彫琢し合うということ sasayama URL

2017/04/10 (Mon) 17:45:11


ガラスにクラックを入れていくという作業は、鑑賞サイドからの推測では、
ガラスが割れるのではないかということが心配されます。
片山はそのことに敢えて挑んでいこうとするわけですから、
それなりの成算もまたあるのだろうと思われますが、
いずれにしても、作業の間ずうっと緊張を強いられていくのではないかと想像されます。
そのことが、どういう実りを作者にもたらしていくのか、それもまた作品の一つの鑑賞どころとなるかもしれません。

「物質の限界を超えていく」ということは、素材(物質)の側がどうなっていくかという関心にとどまらず、
それを遂行していく人間(作者)の側の変容あるいは成育といったことも、重要な要素となります。
物質へのはたらきかけは、精神の彫琢ということに通じているのです。

作者の言葉として片山はリーフレットに、
「クラックは、無色透明な硝子は光の乱反射により白濁し、物質から解離し優婉さを持つ別のものに変容してゆく。」
と書いてますが、
そのようなガラスの変容が同時に作者の精神の形として立ち上がってくることこそがこの種の創作の意義のあるところです。
片山の創作者としての旅だちが、この方向でなされることを期待したいと思います。



「物質の限界」という命題(続) sasayama URL

2017/03/29 (Wed) 17:33:17


「物質の限界を超える」という表現は、井上まさじという画家の発言から来ています。
井上さんが使っている素材はアクリル絵の具で、言葉で表現するならば「絵の具を粒子化する」というふうに言えるでしょうか。
その技法を具体的に説明しようとすると長くなるので省略しますが、要するに絵の具の動きを粒子レベルで観察しているのですね。
その前提条件としては、絵の具の動きを粒子レベルで見る視力を鍛えないといけないのですが、
井上さんはその訓練を20年以上続けていて、今も続けているのです。
その視力をもって初めて、絵の具という物質の限界を超えていくということが可能になってきます。

そういうふうに見ていくと、「物質の限界を超える」ということは誰でもがおいそれとできることではなく、
もしそういう課題を自らに課したとするならば、それは生涯をかけて追求していくテーマということになります。
そんなのあまりにも重すぎると思われるでしょうか?
でも実はそんなに重く受け取ることもないとも言えます。
なんとなれば、どっちみちアートの仕事というのは生涯をかけて追求していくものであるし、生涯をかけてもなお、ゴールには達することのないような所業であるからです。

とりあえずひとつ言えることは、物質(素材)の動きを粒子レベルで観察していくことは、物質の新しい美を見い出していく上で、とても有効な方法であるということです。
この意味では、ガラスの無垢の塊りにクラックを入れていく方法は、
粒子化されたガラスを生み出していくという点で有効な手がかりになると思われます。
これを手がかりとして、ものを見る眼をいかに強靭にそしていかに深く培っていくかというところが、創作としての勝負どころになっていくでしょう。

ガラスの場合は流体化ということがある意味では粒子化の変形とも捉えられますが、
いずれにしても、ガラスの加工法の中に、どのような未知の物質の姿を見い出すことができるかということですね。

「物質の限界」という命題 sasayama URL

2017/03/22 (Wed) 17:37:01


『現代工芸論』のレポートで片山が選んだテーマは、「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題の意味をどう解釈するかということでした。
この命題は、『現代工芸論』の中では最後の「造形論的展望」という章で出てきます。
この命題の前に二つの命題を挙げているのですが、それは次のようなものです。

命題1「工芸的制作の特徴は、何らかの方法で物質の変容という事態をもたらすことである。」
命題2「現代の工芸は、物質を使って何ができるかを探っていく仕事である。」

先行するこの二つの命題についての解釈も片山は提示しています。その解釈はまあだいたいのところは間違ってないのですが、
最後の命題3はなかなかの難物であって、片山は結局未解決のままで「今後の制作の中で考えていきたい」と結んでいました。
しかし片山が志向するところはこのレポートによく表されていると言えるでしょう。
リーフレットにも書いているように、「素材の限界や、素材で何ができるかを問いながら造形」していくことが、目下の彼のテーマであるということです。

言葉では「物質の限界」と簡単に言えますが、それをどう見極めるかということは、かんたんなことではありません。
とはいえ、そのような問題意識を持ってしまったからには、その人にとっての「物質の限界」ということを設定していくところから始めるほかないとも言えます。

私は彼の作品をまだ一度しか見たことがありません。
それは昨年の夏に制作したもので、鉛筆のキャップのような形をした細長いコーンを4つ並べたものでした(画像参照)。
溶けたガラスの塊りに息を吹き込んで成形する宙吹き技法によるものですが、
一人の人間で作れるスケールとしては、それこそ〝限界″地点近くでの制作と言えるでしょう。
工芸素材による造形は、素材をコントロールできるまでに随分と時間がかかることを思えば、
大学2年時点でのこの制作には、ずうっと彼方に設定した目標を目指しての第一歩を踏み出そうとする気概のようなものが感じられます。

物質の美の発見へ sasayama URL

2017/03/16 (Thu) 17:44:00


「根源へ」展3人目の出品者は片山洸希で、工芸科でガラス造形を学んでいます。
展覧会への出品のための新しい試みとして、ガラスの塊りが衝撃を受けて生じるクラックに着目し、
「クラックは、無色透明な硝子は光の乱反射により白濁し、物質から解離し優婉さを持つ別のものに変容してゆく」
とリーフレットに書いています。
工芸の創作に進む人は、ガラスや土や金属、繊維など工芸素材の美しさに惹かれたことが動機になっていることが多いようですが、
特に現代工芸という場合は、既成のイメージにはない素材の美しさを見い出していこうとすることが“現代”たる所以ということになります。

クラックの効果によってガラスは「物質から解離し優婉さを持つ別のものに変容してゆく」とはいえ、
それが作者にとってどういう意味を持つのかということを探っていくのは、なかなか難しいところがあります。
差し当たりは、物質(ガラス)の既成のイメージからはずれたところでの新たな美を生み出していくところに“工芸作家”の仕事があるのだということにしておきましょう。

『現代工芸論』では、「工芸の役割は“いいもの”を創ることである」としました。
ここで言う“いいもの”とは、美術における“自己表現”あるいは“コンセプチュアリズム”、工業における“利潤を生み出すもの”に相当するものです。
この意味では、工芸家の創作は必ずしも“自己表現的”“コンセプチュアル”、“実用・実利的”でなければいけないということはないわけです。
その代わりに“いいもの”――身辺にそれがあることによって精神生活が豊かになるものを創ることが要請されています。
「物質から解離し優婉さを持つ別のもの」片山はその方向に、“いいもの”を見い出していこうとしているというわけです。


画像は片山洸希作のガラスのオブジェ「sila」

第2回「根源へ――『現代工芸論』から生れてきたもの」展の開催 sasayama URL

2017/03/13 (Mon) 16:53:15

第2回「根源へ――『現代工芸論』から生れてきたもの」展を下記のように開催します。

2017年4月24日(月)-29日(土)12:00-18:30
ギャルリ・プス 東京都中央区銀座5‐14‐16銀座アビタシオン201
[出品者]磯崎隼士(絵画科油画4年)
片山洸希(工芸科金工4年)
塩田法子(絵画科油画4年)

ギャラリートーク29日(土)16::00~17:30
出品者を囲んでフリートークを愉しみます。
どなたも聴講できますので聴きにおいでください。
終了後、クロージングパーティで締めます。


詳細は「根源へ」のサイトをご覧下さい。
http://katachi21.com/kongen-e/index.html


画像は展覧会のリーフレットの表紙です。

「かたち塾」からのお知らせ sasayama URL

2017/03/11 (Sat) 11:41:20


「かたち塾」の催事
レクチャー――日本のかたちに見る「空」の表現について
講 師―――――笹山 央[かたち塾講師]
日 時―――――2017年4月1日(土)1:30P.M.~4:30P.M.
会 場―――――和光大学ポプリホール鶴川3F練習室(小田急線鶴川駅前) 
受講料――3,500円 茶菓子代込 学生は2,500円
  ※要予約

詳細およびお申込は下記サイトにて。
http://katachi21.com/juku-program.html

アートと貨幣の根源的な関係 sasayama URL

2017/03/09 (Thu) 17:51:04

大学2年のときに磯崎が描いた“顔”のモデルは、米軍基地のある街で性を売る仕事をしている女性たちということでした。
いうならば自らの心身を商品と見なして貨幣と交換する仕事ですが、
「心身を商品と見なして貨幣と交換する」という点ではアートと共通するものがあるという認識が、基本にあるのですね。
アートと性の売買を同一視するなどと不謹慎なと思う人もいるかもしれませんが、
アートの本質は心身、というよりは“魂”を売る仕事にほかならないというのは、
近代アートの成り立ちから由来しているものです。

19世紀の西洋では、産業革命後の小市民階級の勃興とともに美術市場(いわゆる投機対象として美術作品を売買する場、付加価値を高めるために“オリジナリティ”の概念を普及させる場)の常態化が、その後に現代美術へと展開していく条件を作っていったわけです。
アートと貨幣は切っても切れない深い関係にあると考えざるをえません。

近代の芸術家というのは、娼婦や山師や詐欺師といった、“健全な市民階級”の人々からは“ウサン臭く”見られていた人々に対する、ある種のシンパシーを持っていたものです。
アートといったって、結局“魂と貨幣を交換する”仕事であり、人を騙したりたぶらかす(実際、西洋画における遠近法とか写実なんていうのは“だまし絵”に他ならないと思いませんか?)のと変わりはしない、という意識につきまとわれて、そのことが近代人の生き方とダブって、創作上の生々しいモチベーションとなっていったのでした。

磯崎が、そういった性をひさぐ女性たちの顔を凝視するような絵を描いたということは、
近代アートの、ある意味ではメインストリームといってよい伝統を受け継いでいる、そういう視点で、今日のアートや人間の姿を捉えようとしている、と私などには思えます。

アートというのは、それに従事する人をハッピーにするとか面白おかしく時間を過ごさせるとか、、精神生活を豊かにするとかいったことを使命とするものではないと私は思います。
そんなことよりは、飽くまでも“人間の真実”というものを、たとえそれが不幸で辛い結果に導くものであっても、目を逸らさずに凝視していくということこそが、今の時代にあってもなお依然として、アートの本来の使命であると私は思っています。


表層、立体、顔、凝視 sasayama URL

2017/03/01 (Wed) 17:42:16


シリコンという素材を使った磯崎の制作は、実際のものは試作を始めた最初のころに2点ほど見せてもらった程度なので、展覧会時にはどういうふうになっているか、今のところなんとも言えません。
しかしシリコンという素材は、アート鑑賞の上では非常に多義的な意味を呈するに違いなく、興味深い素材であることは確かです。
試作を見せてもらったときに連想したのは、皮膚、表面、表層といった言葉であったり、それからシュールレアリズムペインターのダリが描いたぐんにゃりとした時計のことも思い出しました。
磯崎自身は、特に“皮膚”のイメージに基づいた制作を考えているようです。

皮膚とか表面,表層といったキーワードから私の中で連想されるのは、“顔”という現象です。
“顔”はレヴィナスの哲学においてももっとも重要なキーワードのひとつであり、鷲田清一にも『顔の現象学』という著書があったりして、“顔”に関するエクリチュールは膨大なものがあります。

実は磯崎にも“顔”をモチーフにした油絵作品があります。
スーパーレアリズムの技法で描かれたような、精密描写された“顔”です。
『現代工芸論』を聴講する中で、「形の美」の実現のよりどころのひとつとしての“繰り返し作業”の話を聞いて、それを精密描写とつなげて自分で試みてみたのがそれらの制作ということでした。
この場合、精密描写の方法は“顔”の凝視というモチベーションの絵画的な実現であるような気がします。
“顔”すなわち自分に向けられた他者の表層(自分と他者の間を形成する皮膚の形)――レヴィナスならば「無限的なものの迎え入れ」と表現するところ――への関心は、
その後シリコンという物質の存在様式へと向けられていく関心と、地下水系的につながっているように感じられます。

ここにもまた「絵画の物質化」のひとつの方向が示されています。

「絵画」に向けて、さまざまなアプローチ sasayama URL

2017/02/22 (Wed) 17:23:56


「現代工芸論」の講義の中で“用の美”について説明するのに、
ピエ・ブックスというところから出版された『Katachi 日本のかたち』という写真集を参考文献に使ったのですが、
この本に興味を持った一人が磯崎隼士でした。レポートでは、日本の伝統的“用の美”が体現している“造形の美”について、大いなる共感を持って熱く書いています。

たとえば、
「工芸品の美しさは工芸品自体が他人と接し発見してもらうことで新しい美しさを持つ特殊な美術作品で、その表現の強さは鑑賞者に美しさを委ねない限定的な美をもつ彫刻とは比べ物にならないくらい強いです。」
と書き、また、
「工芸作品は、現代の流行に乗ったような資本主義をベースとした現代美術とは全く違って、いくら作品を眺めても飽きることがない普遍的な美を持つものでした。」
とあったりします。

それでも、いま磯崎が進めている自分自身の制作は「資本主義をベースとした現代美術」自体をテーマとするものであると受け取れますが、
造形表現を通してこの時代にコミットしていこうとする人間として、“日本のかたち”を一つの精神的な支えとして認識するということは、
『現代工芸論』の著者たる私としては、とても重要なことであると考えます。

「現代工芸論」からは他にもいろいろ学んだことがあると磯崎は私に話してくれましたが、
それらはいずれも、結局「絵画」というメディアに向かってさまざまな切り口でアプローチしていこうとする彼自身の美術学徒としての姿勢を物語るものでありました。
磯崎の多方面にわたってセンサーを張り巡らしていく学びのあり方が、
これからどのように展開していくかというあたりを楽しみにしていきたいと思います。


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