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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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「空」についての話題―—石田明里さんの個展のステートメントから(承前) sasayama

2017/10/18 (Wed) 17:47:46

石田さんの、個展のためのもうひとつのステートメン「Null-Land 座標ゼロ」は以下のように書かれています。

パブリックドメイン(公有コンテンツ)の世界地図データNatural Earthに設定されている北緯0度・東緯0度の架空の島Null-Islandをインスピレーションソースに、陶淵明の桃源郷について考えてみる。
桃源郷はいわゆるトマス・モア的“ユートピア”では無く、理想社会の実現に向けた主体的意志を受け付けない。目的を持って追及したのでは到達できない場所なのである。
心の外にそれを求めて探すと見つからず、既に人々の心の内にある存在を具現化したものが桃源郷であり、地上の何処かではなく、魂の奥底に存在しているといわれている。

Null-Islandだのユートピアだの桃源郷だの(ついでに言えば、無何有郷というのもあります。これは『荘子』の中に出てくる理想郷です)石田さんがどういうことに深い関心を寄せているかがよくわかるキーワード群です。
これもやはり、その根っこには「空」への関心があるだろうというのが、私の読みです。

ジュエリー作品を制作する、これは物質的世界とかかわることであり、物質というリアルな存在にかかわる限りは、非空の世界の中で感じたり作ったり考えたりするわけです。
もともと石田さんの身体の中のどこかに「空」の観念の種子のようなものがあって、それが芽吹き始める。
「空」の芽吹きをなんとなく感じながら、物質の世界に身を置いていることが必ずしも拘束とは感じられない。
むしろ逆に、ある種の自由感、解放感のような空気が身を浸してくるのを覚える。
それが何か作品制作に向かう気持ちを掻きたててくるようである‥‥。

なんかそんな気分じゃないのかな、このステートメントに漂う気配は。

今年の春に彼女が私に送ってきたメッセージの中に、秋開催予定の個展に向けてのヴィジョンのようなことが一言書いてあって、次のような一文があったことを思い出しました。
「テーマは「窓」で、宗教建築などに見てとれる開放口としてのメタファー(こちらが行くのか向こうから来るのかはわかりませんが)が題材になっています」

このあたりから、作品論の領域に入っていけそうですが、その機会はまた改めて、ということにしたいと思います。

「空」についての話題―—石田明里さんの個展のステートメントから sasayama

2017/10/12 (Thu) 20:21:19

私が主宰している「かたち塾」は、開催のつどその内容についてKATACHI-JUKUという印刷物で報告しているのですが、
その印刷物のNo.10(2017年3月1日発行)では巻頭の所感に、“「かたち」を超えて「空」に至る”とタイトルした文章を書きました。
今年に入ったあたりから、「空」ということが少し感覚的に馴染んでくるようになったようです。

コンテンポラリー・ジュエルラーの石田明里さんがその文章を読んで興味を覚えたらしく、彼女から連絡がありました。今年の春のころの出来事です。
それから半年後のつい先日、石田さんが東京・青山のギャラリーで新作の個展を開かれました。
ガラス素材によるブローチやイヤリングを発表していました。
そのときに新作のコンセプトを表したステートメントが書かれており、それは私には大変興味深く感じられました。
ステートメントは二つあって、どちらも短いものですが、タイトルだけを紹介しますと、ひとつは「Imperfection 不完全」もうひとつは「Null-Land 座標ゼロ」というものです。

「Imperfection 不完全」は以下のような内容です。
   肉体的生命を維持して行く為の
   細胞の完璧な調和が必然だとすると。
   感情の移ろいや揺らぎはどうしてこのように
   砂浜を舐める波の泡のように常に有機的で
   完璧な箱の中身をゆさぶり続けるのか?

私が特に興味を覚えたのは、「完璧」「完全」といった言葉が使われていることです。
「人間の精神の完全とは何か」という問いかけは、現代においてはめったにお目にかかることがないのではないかと思います。
かと言ってこれはいわゆる完全主義者・完璧主義者の言葉でもないように感じられます。
つまり、完全とか完璧とかを、目指すべき目標のように設定しているわけではないということです。
むしろ「砂浜を舐める波の泡のように常に有機的」という言葉を対応させることで、
何かもっと別なことに照準が当てられているように感じられます。

私が推測するに、「完璧」「完全」といった言葉の裏側にあるのは「空」ということではないかと思います。
あるいは「空」という言葉で言い表されるような事態が、石田さんの中で蠢き始めている、といったことを予感させます。


「空」には部分がありません。
「空」の思想を説いた仏教の般若経系の経典の中には「一切皆空」という表現はありますが、「部分的に空」とか「一部空」といった表現はありません。
「空」は「一切」とか「完全」といった言葉に対応する概念です。
All or NothingのNothing ですね。

私が信奉している或る論理学者の著書の中にこんな文があります。
  「(任意の情報空間において)空集合の情報量は情報空間全体になる」

「空」は何も無いことではありません。むしろ一切を含むんですね。
この意味で、「空」は「砂浜を舐める波の泡のように常に有機的」な世界と、誤解を恐れず言えば、同じと考えることも可能です。

以上、石田さんの言わんとするところとちょっと違うかもしれませんが、このステートメントを読んで、私が最初に直感的に感じたことです。


画像は個展に出品されていたブローチです。

「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介[4]] - sasayama

2017/10/04 (Wed) 22:00:36

油画4年の黒沼大泰さんのレポートのタイトルは「取り合わせの美――生活の文脈から切り離された「美術品」について」というものでした。
“取り合わせの美”というのは、『現代工芸論』の中で、日本的造形美の特徴は“取り合わせ”ということの中にあるということを論じ、西洋近代美術の成り立ち方とは異なっているということを主張しているところから引いてきています。
美術というものを、西洋近代の純粋造形志向から現代の市民生活の文脈と結びついた作品を創っていくということが、絵画の制作モチーフとして意識されているということです。

わかりやすく言えば、売れる絵を創っていこうということですが、そのように表現すると美術の世界では未だに反発をくらいそうなところがあります。
しかしプロの仕事というのは、その仕事が生み出すもので生活をしていくことが原則であると私は思いますし、またそうでなければ、市民社会の中では一人前の社会人として認めてもらえません(“先生”などといった敬称を付けられて、敬して遠ざけられる存在に甘んじることになります)。
黒沼くんは『現代工芸論』が提起している事柄をより積極的に受け止めて、現実の社会の中での美術の在り方を考えていくという方針を堂々と打ち出していると私は受け止めました。

レポートの中で黒沼くんは「日本人の庶民的、一般的な美意識は花鳥風月のまま、つまり江戸時代のまま止まっている」と書いてますが、それは確かに一面の真実と言えます。
美術業界(黒沼くんは“ムラ”と表現してますが)の中では現代美術のような先端的な美術が追っかけられたり、その中でいきがったりしてますが、一歩外に出ると、やっぱり花鳥風月であり、伝統工芸なんですね。
逆に言えば、そういった花鳥風月や伝統工芸にこそ現代日本人の美的感性のリアリティが厳然と居座っているとも考えられるわけです。

それはとても巨大な、岩盤のようなリアリティであって、そのリアリティに立ち向かっていき、そこから“現代性”への通路を切り開いていこうと志すところに、本当の意味での“日本型現代美術”の展望とスリルがあるのかもしれません。


画像は金箔を使って3次元空間の表現を試みる絵画作品


「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介[3] sasayama URL

2017/09/28 (Thu) 17:44:26


油画3年の仲田有希さんのレポートは、『現代工芸論』中の造形論の展望をめぐっての「物質の限界を超えていかなければ先に進めない」という命題に対してコメントを書いています。
これは大変難しい命題で、どう解釈するか、「これが正しい解釈」というのはないのです。
この命題に興味を覚えた人それぞれが、自分なりの解釈をすればよいと思います。

仲田さんは大学の課題の中の制作で、アタッシュケースの内側に絵を描いた作品を作ったことを報告しています。
「アタッシュケースの持ち手を握ることで、絵画と手を取り合うといった意味を含ませた」ということです。
物質と人が交差するとき、「“何か今明らかに違うものになった”と感じられることがある。絵を描いている時にも、立体物を作っている時にも、それは自らの手中でコントロールしているのではなく、別の次元で物質が作用していることがある。濡れた絵の具が乾く時なのか? つなぎ合わさった木と木がなじんだと感じる時か? それらは私が作品を作るときの目に見えづらく、言葉にしがたい神秘だと思っていた。」

『現代工芸論』は上記のことを意識するきっかけになったようです。こんなふうに続けています。
「『現代工芸論』の最後138ページに、「そのためには物質としての絵の具の動きや変化を注意深く、きめ細かく観察することが不可欠であり、そのような作業が物質の限界を超えていく条件となる」と書いてある。
物質を遊ばせるのではなく、全てを観察することでまた支持体となる(または芯となる・核となる)物質の下に、薄くて強固な基盤が出来る気がした。」

物質と人間がいわば交感の作用をなすという神秘的とも感じられる事象に着目して、そこに造形表現への基盤を見出していこうということでしょうか。
そのアプローチの中から、物質と人間の関係をめぐる新たなビジョンが開けてくる可能性が期待されます。


画像はアタッシュケースを含むインスタレーション風の作品。2年時の制作。タイトルは『自由と束縛』。「精神哲学や肉体の感触、宗教観や死生観が見え隠れする作品を作っている」と自解している。


「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介 sasayama URL

2017/09/14 (Thu) 17:34:25

多摩美術大学での講義「現代工芸論」の2016年度聴講学生による「『現代工芸論』から生まれてきたもの――根源へ」展の出品者が決まりました。
工芸学科から1人、絵画学科油画コースから3人の計4人で、展覧会は来年の春、銀座のギャルリ・プスで開催を予定しています。
これから出品者を一人づつ、講義およびテキスト『現代工芸論』と各出品者とのかかわりを軸に、紹介していきましょう。

寺松尚美さんは工芸学科ガラス専攻の3年です。
「現代工芸論」のレポートに書いていたことは、工芸の全体は「民衆の生活に即した用の美を目指すもの、国家的事業あるいは権力者のステータスシンボルとして美の究極を追求していくもの、個人による創作、の3つの分野に分けられる」として、そのことを踏まえた上で、「自分が作ろうとしているのは何なのか」を問いかけるものでした。
そしてこれに対して自分で出した答えは、
「これからも工芸作品を作っていく。用の美としてのものも、アートよりのものも作るだろう。その時に自分の気持ちが追いつくように、その工芸のジャンルの良さを引き出せるように制作したい。変化する工芸、考えることを止めずに工芸の美しさを引き出せればと思う」
というものでした。

昔(1970~80年代まで)は、工芸は使えるものを作る分野のモノづくりであって、当時オブジェ工芸を作る人もいましたが、そんなのは工芸ではないとする意見も強くありました。
現代は、そういった区別の仕方にこだわる人は見当たらなくなり、オブジェでも器のものでも自分が作りたいと思うものを作ればいいのだ、と考える人が大勢を占めているように感じられます。
そういう中で寺松さんの考えが特に目新しいというわけではありませんが、
ただ単に「作りたいものを作る」というのではなくて、もともとの「工芸の由来」ということを頭に入れて、その上で「時に応じて器のものもつくるし、アート的な表現のものも作る」と、自分の制作姿勢を反省的に捉えているところが、
実際にものを作っていく上で意識の差というものを生み出すだろうと、私は思います。

自分の創作の方向性を見定めるということですね。
「何を作るのか」という問いを明確に自覚して、苦しみながらでも一歩一歩歩みを進めていく姿勢が、ただ単に「好きだから作る」というのとは違って、「アートとしての工芸」の世界を開いていくだろうと思われます。
寺松さんの制作にはそこのところを注目して見ていきたいと思っています。

写真作品は「柱になる」 ガラスによる造形

“精神性”という言葉について(4) sasayama URL

2017/09/07 (Thu) 16:53:17


“写意”描写においては、画面上に描く線や濃淡は対象をそのまま写すのではなく、画面上に新たな世界を創り出していくことであるから、抽象表現の世界と共通するところがあります。
しかし、抽象表現と異なるところは対象(客観的世界)に向き合って描くということであり、その意味であくまで“写意”であると同時に、とはいえ“写実”ともまた違っているということです。

画面上に描かれる(存在させられる)ものは現実には存在しないものですが、対象と向き合う中から見出されてくるものであるという意味では、ある客観的なリアリティに裏付けられるものと言えます。
したがって、対象の中に何を見出していくかということが、“写意”描写におけるひとつの勝負どころとなると考えることができます。
そして一度見出されればそこがゴールというものでもなくて、見出されてくるものは、日々新たなのではないかと思います。さらに、見出されたものの奥にまた別なものが見え隠れし始める、というようなことが起こってきたりもします。
かくして、対象に向き合うということが延々と続いていく、それもまた「絵を描く」ということのひとつの意味であろうと思うのです。

対象の世界を仮に“自然的世界”に設定する。事実、東アジアの伝統絵画の多くはこの“自然的世界”に向き合うことの中から、産出されてきたのでした。
そして“描かれた世界”は人為の世界に他なりませんが、しかしいわば“もうひとつの自然的世界”とも言いうるものです。
言い換えれば、眼前のリアルな自然的世界を画面上に置き換えていった“もうひとつの自然的世界”です。
このように、リアルな自然的世界に対応する“もうひとつの自然的世界”を、私は“精神”と呼びたいと思います。

このような“精神”は、リアルな自然的世界に対峙しつつそこに見出されていく“もうひとつの世界”を日々更新し、そしてそのことを通して自らを養成していくような在り方をする世界です。

立派な精神の持ち主が“いいもの”を創れるとは限りません。“精神”は日々の更新を通して育てていくものであり、それは生きている限り続いていくものであると考えます。


“精神性”という言葉について(3) sasayama URL

2017/08/31 (Thu) 17:43:50


“写意”とはつまり“意を写す”ということで“実(対象)を写す”ということではない。
具体的に言えば、もの(対象)に接して“感じたことを表す”ということです。
しかし“感じたことを表す”といっても、初心者にはこれがムズカシイんですね。

よく小学生ぐらいの子供に、絵でも作文でも「感じたままを描け(書け)ばいいんだ」と指導される先生がおられます。
私自身、小学生の時に先生にそう言われることがありましたが、
作文でも「遠足に行きました。楽しかったです。終わり。」程度の文章しか書けませんでした。
「楽しい」と感じたことは確かだから「楽しい」と書いておしまいだったわけです。
それ以上、どう書いていいのかわかりませんでした。

自分の心の動きを表すには、人の話を聞いたり文章を読んだりして、「こういう心の動きは、こういう言葉を使って、こういうふうに書けばいいんだな」という経験(言葉のデータ)をたくさん積んで、それを自分で試みてみて、そういうことを繰り返していって、だんだんと長い文章が書けるようになっていったわけです、私の場合。
つまり、「感じたままを書く」には言葉の使い方や作文法というのを覚えて、「心の動きを言葉に置き換えていく」という訓練を繰り返していかなければいけなかったのです。

絵を描くことも結局同じことで、ただ紙の上に無闇に線を引いたところで、その線が自分の「感じたまま」を表しているのかどうかはわかりません。
「対象となるものに接して自分が感じたこと」を線や色や濃淡で表すということは、言葉で表現するよりも何倍も難しいことであるように私には感じられます。
「何を感じているのか」を問うことは、難しく言えば反省的な認識作用であって、それを白い紙の上に線で表すとなると、その反省的な認識作用を更に超えて行かなければ実現できないところがあります。
言葉であれば、反省的な認識作用をそのまま言葉にしていけばいいだけなわけですから。
幼児はみな絵の天才ですが、認識作用にまだ反省的なワンクッションが入らないので、手や身体を動かすことは彼の“自然”と一致しているわけです。
それが反省的な認識作用が育ってくるにつれて大人になっていくとともに、絵の天才は消え失せていくようです。

自意識が芽生えてきてからの絵を描くということは、絵を描くことの再スタートになります。
感じたことを形にしていくことは、発語・作文訓練と同じように、日々の訓練を積み重ねていく以外の何者でもないと私は思います。


”精神性”という言葉について(2) sasayama URL

2017/08/24 (Thu) 16:00:55

絵の中では“線”はなんらかのはたらきを有しますが、西洋の写実の考え方では“線”は現実の世界に実体としては存在しないので、最終的には消されていきます。
しかし東アジアの伝統的な絵画技法では線を消すことができませんし、特に水墨画ではいったん画面の上に描いてしまったら、絵の中に実在するものになります。
そうすると実景を描いている場合でも、絵の中に描かれているものは実景とは異なった、もうひとつの世界を描いている、あるいは新たに創っていると考えることも可能であるわけですね。

私自身ずうっと西洋の写実の考え方に拘束されていたので、画面上に線を描くことの意味をどう考えればいいのか、突き詰めたところでは分からないでいました。
毛筆で墨の絵を描く場合でも、モノの形を設定するために線を描くと、その線をどう意味づけするのかというところがわからなくて、いわば「線がひけない」でいたわけです。
しかし最近、「描かれた線は、それ自体で画面上のひとつの存在である」と考えることにしたときから、西洋的写実の拘束感から解放されたような感覚が得られました。
画面上に線を描けば、そこから「絵を描くことが始まる」と、そういうふうに考えていいのだと思えるようになったのです。
(ここでは抽象絵画のことは視野に入れていません。)

今更何を言ってるかと言われるかもしれませんが、これは私にとっては、“コロンブスの卵”的な発見となりました。
描く対象を目の前において、その対象を描こうとするのですが、しかしその対象のリアルな形に囚われることはないということです。これが東アジアの伝統的絵画の基本的な成り立ち方であり、その意味では、一見、対象の形をリアルに写しているように見えても、西洋の写実とは絵の成り立ち方がまったく異なっているのですね。
その決定的な違いを表すのが“写意”という言葉です。



“精神性”という言葉について(1) sasayama URL

2017/08/18 (Fri) 17:20:07


“精神性”という言葉について少し考えてみたいと思います。

アート系創作の解説文や批評文ではこの言葉を見かけることがしょっちゅうあります(私自身もたまに使います)が、
意味を確定できないこの曖昧模糊とした言葉は、私自身はできれば使わないで済ませたいと、これまで思ってきました。
しかし便利な言葉ではあって、他に適当な言葉がどうしても見つからない時には、“精神性(的)”という言葉をやむをえず使って、その場をしのいだりすることがあります。

この言葉は、特に我が国の伝統工芸の世界や、日本画・水墨画・書作の世界で頻出しますが、
これら東アジアの伝統アート系のものを論じる場合はなお一層“精神性”という言葉は使わないでいたいというのが、私のかねてからの作文方針とすることろでした。
それにしてもなぜ東アジアのアート系の創作といわゆる“精神主義”とがつながりやすいのか、
私自身の中で正確に説明することができないできたことも確かです。

しかし私が主宰する「かたち塾」の会報誌の今年の6月に発行したNo.11号では、水墨画の成り立ちを説明する文章の中で、
“精神”という言葉を、ある意味では積極的な意味合いを見出したいという思いで、使いました。
そこでは次のように書いたのです。
「西洋的写実の考え方に立った場合の「自然界にはないもの」は、線のほかに濃淡(あるのはすべて固有色)、空白(白いスペースは白という色)」などです。それら「西洋的写実の考え方に立った場合の自然界にないもの」は、水墨画の世界では実在する。そしてそういった要素(線、濃淡、空白)を使って“自然”を表現するのが水墨画(東アジアの絵画の伝統)であるということです。
 水墨画の成り立ちは“写意”を基本とするので、上記の“自然”という言葉は“精神”という言葉に置き換えることができます。東アジアの造形表現においては、“自然”と“精神”が交換可能であるように感じられる(見える)のはなぜか? ということもこれでやっと納得できたのです。」

上記引用文中、“線、濃淡、空白は「自然界には無いもの」”とか、“水墨画の成り立ちは“写意”を基本とする」とか、気になるセンテンスがあるかと思いますが、
ここでは、““自然”という言葉は“精神”という言葉に置き換えることができる“というところをフォーカスしておきます。
つまり、“自然”という言葉に置き換えうる何事かを“精神”という言葉で表わすということですね。

“精神”という言葉の意味をこういうふうに捉えてみることができるということに、気がついたわけです。



夏休み sasayama URL

2017/08/02 (Wed) 17:35:15



今週は夏休み中。



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