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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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言語ディスプレーとしての公案 sasayama URL

2017/07/19 (Wed) 16:41:51


言語ディスプレーの考え方は現代詩なんかを読む場合にかなり効果がありそうですが、
それ以上に効果的なのは、禅仏教でよく話題になる、いわゆる公案と呼ばれている言語表現に向かい合う場合です。
たとえば、「父母未生以前の本来の面目は何か」(自分を生んだ父母が生まれる前の自分は何者か)という公案がりますが、
この公案を考えた人は何が言いたいのか、などということを考えると、公案に仕掛けられた罠に陥って、「わけがわからない」ということになりかねません。

公案を解くのは禅仏教における修行法の一つだそうで、要するにそこに提示されている言葉に囚われない境地が目指されているわけです。
言葉に囚われているうちは、正しい(と判断される)見解(けんげ。公案に対する解答)を返すことができません。
公案の意味を考えるなどということは、言葉に囚われた狭い世界に生きていることを意味します。

上記の公案は、夏目漱石の小説『門』のなかに出てくるのでよく知られています。
小説では、父母未生の公案に対する主人公の見解(具体的には書かれていない)を、老師は「もっと、ぎろりとした所を持ってこなければ駄目だ」と言って一蹴します。
つまり、これが正解、という見解はないのです。
どう答えてもいい(つまり含意は多様である)のですが、しかし「ぎろり」としている必要があります。
そこがいわば公案をひとつの言語ディスプレーとした、言葉のやりとりの妙、すなわち公案というひとつの文化になるわけですね。

そして小説では、登場人物がこういう発言をしています。
「頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます。」
言葉をどう解釈するかということよりも、ディスプレーされた言葉を身体全体に充実させるところからおのずから血路が開けてくる(見解が得られる)、という考え方でしょう。
そういうのが禅仏教的なコミュニケーションの考え方なのだと思います。


龍樹『中論』への言語ディスプレー的アプローチ sasayama URL

2017/07/12 (Wed) 16:51:59

前々回で大乗仏教系における真俗二諦の話を出しましたが、ここでもう一度この話題にふれておきます。

大乗仏教の思想的な原点となる仏典としては、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』というのがよく知られています。
“空”の思想を説いた仏典と言われており、内容的にははなはだ難解です。
直接“空”について論及している箇所では、龍珠の論敵からの反論が最初にあって、それに応える形で“空”の何たるかが論じられています。

論敵が言うには、“空”はこの世の現象のすべてを実体としては存在しないものとして否定するのであるから、煩悩とか四諦(苦集滅道)八正道とか涅槃などの仏教思想を構成する諸概念も否定されるし、そもそも龍樹の唱える「“空”の思想」自体も否定されることになるではないか、と。
これに対して龍樹は、それはあなたが“空”ということを正しく理解していないからそう思うのだと反論します。
この反論の冒頭の箇所で真俗二諦の説が論じられ、さらに、“空”とは何かということが論じられていきます。
ここでの竜樹の論法は以下のように要約できます。すなわち
「一切が空でなければ、生は存在しない、滅も存在しない、四つの聖なる真理(苦集滅道)も存在しないということになるだろう。」

この要約を注意して読んでください。何か逆説的な言い方をしているように思いませんか?
言い方を変えると「一切は空であるから生がある、滅がある、四つの聖なる真理がある」となりますね。
「一切が空である」ということと「生がある、滅がある、四つの聖なる真理がある」こととが両立しているわけです。
なぜそうなるのかというところに“空”の思想の核心がある、その核心が“中”という言葉で表されるところのものです。

『中論』は非常に難解な哲学書です。龍樹の意図に即して読もうとすると一層難解に感じられてきます。
しかし私はここで提案するのですが、『中論』の言葉を“言語ディスプレー”として眺めるということです。
龍樹の論をなしている言葉は、真俗二諦のその“中”間に置かれているのですね。
それが『中論』の難解さの一つの原因と思われます。
真俗(真理と方便)あるいは正反の二義性の中で言葉を受け入れる。
そういう感覚で読んでいくと腑に落ちてくるものがあります。

特にサンスクリット原文で読む場合には、この方法が有効であるようです。

コミュニケーションについて(7)絵画の場合 sasayama URL

2017/07/06 (Thu) 17:45:09

前回提示した〝言語ディスプレー”というのを絵画の場合に置き換えて説明するとしたら、以下のようになります。

絵の場合は色や線や具象的な形などが平面の上にディスプレーされていくメディアと見なすことができます。
見る立場からそれをどう見ていくかということで、私が今読んでいる本の中にかっこうのサンプルが見つかりましたので、それを紹介します。
伊藤亜紗という現代アートの研究者が書いた『目の見えない人は世界をどう見るのか』という本(光文社新書)です。
著者は東京工業大学の先生でもあって、学生に何の説明もせずにマーク・ロスコの絵を見せて、学生がしゃべりだすのを待ちます。学生たちはやがて印象を言葉にしはじめるのですが、本に紹介されているその言葉群は以下のようなものです。

「海苔の上に焼き鮭がのっているお弁当を上から見たところ
「布団が敷いてある」
「ポストの中に隠れて外を見ている」
「火事で鉄製のドアが燃えている様子」
「滲みの効果で、パッと見たときに絵ではなく動画に見えた」

この絵の作者が伝えたいと思っていることとか、表現したいこととかを読み取っていこうという見方ではなくて、
ディスプレーされた色や面やマチエールから受ける印象を、見る立場で自由に(そして正直に)受け止めて言葉にする、ということをやってるわけです。
つまり、ディスプレーされてそこに在るものの意味の多義性(無意味性も含めて)を多義的なままに受け止めていこうということですね。
そういう美術の鑑賞方法もありじゃないの、ということを伊藤さんは言おうとしています。

ただしこの方法を認めることの重要なポイントは、「他人の目で物を見る」ことだと伊藤さんは書いてます。
「他の人の言葉を聞いたうえで絵を見ると、本当にそのように見えてくるのです。」
そして
「言葉とセットになることで、絵画が次々と変形していくのです。鮭弁でもあり、ポストの中でもあり、敷き布団でもあり、燃える鉄製のドアでもありうるもの、芸術作品とは本質的に、無限の顔を持った可能性の塊です。」

作者が訴えようとしているものは何かを読み取ろうとしたり、作品のオリジナリティを評価したり、というような鑑賞方法ではなくて、ディスプレーされているものから多様な意味を汲み取ってきて、情報交換していくというような鑑賞方法、言い換えればコミュニケーションのあり方ということが考えられるのではないかと思います。
この場合、“表現”は“享受” との関係において特権的なことではなく、“表現”と“享受”が対等であるような、そういう“芸術の愉しみ方”、そしてある意味では“コミュニケーションの成り立ち”ということにかかわるヴィジョンが提示されているようにも思われます。。


画像はマーク・ロスコの作品。伊藤さんが学生に提示したのとは違いますが、こんなふうな絵という意味の参考作品です。

コミュニケーションについて(6) sasayama URL

2017/06/28 (Wed) 17:40:00

仏教思想には真俗二諦の説というのがあって、真諦(勝義諦、第一義諦などとも言う)は、釈迦のように悟りに達した者が得る究極の真理を意味し、これは言葉では言い表す(言葉を超えている)ことができないとされます。
言葉で表わされたものは飽くまでも真理それ自体ではないですが、世間の諸煩悩にまみれている一般衆生には言葉(イラストなどのヴィジュアル表現も含む)で伝える以外の有効な方法がないので、これを俗諦(世俗諦とも言う)として、真理に導く仮の言葉とするわけです。
真俗二諦の説は特に大乗仏教思想の支柱の一つを成している考えといってよく、お経と呼びならわされている仏典の言葉も、要するに俗諦として表記されているわけです。
この観点からすると、大乗仏教系の経典を読むということは、「言葉を超えたもの」を言葉で伝えようとする、基本的には自己矛盾のはざまにあっての言語表現的確執(ドラマ)を体験していくことであるというふうに考えることもできるのです。

ある意味、言葉とは本来そういうものだと見なすことも可能ですが、そもそも言葉を「真理(あるいは心の内側の真実)を伝える・表現する」ものとして捉えようとするところで、「言葉を超えたものを言葉にしようとする自己矛盾」そして「言葉の意味が一義的には確定できないことの謎」といった事態が生み出されてくるのではないかと考えられます。
言葉の機能をそのように捉えるのではなくて、伝えたい・表現したい内容を言葉に「置き換える」という感覚で捉えてみると、置き換えられたものをどう読み取っていくかという、読み取り方のさまざまなヴァリエーションという可能的展望が開けてくるのではないかという気がします。
その展望を複数の人間の間で情報交換していくことが、「言葉に置き換えられたもの」を廻る新たなイメージや思想を創り出していくことになるのではないでしょうか。

そんなことを思っている中から、つい最近、「言語ディスプレイ」という言葉を思いつきました。
「言語表現」ではなく、またヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というのでもなく、「言語ディスプレイ」です。
中田ナオトさんの言う「置き換え」ということをベースに据えつつ、これを「ディスプレイ」という言い方へと展開してみました。
いかがでしょうか。


コミュニケーションについて(5) sasayama URL

2017/06/21 (Wed) 17:48:32

さて、問題なのは「言葉を超えていること」を言葉でどう表現する(伝える)かということです。
言い換えると「言葉を超えていることを言葉で表現するとはどういうことか」という問題です。
これは「言葉」にとっては一種の自己矛盾的な事態です。
あるいは、真理を知ろうとする人間の欲求にとって根源的に矛盾した事態と言えるでしょうか。

論理学の世界でヴィトゲンシュタインが「語りえぬことは沈黙しなければならない」と書いたり、
釈迦が悟りを得た後、その悟りの内容を人々に伝える(言葉にする)のは至難のことなので、説法をためらったというようなエピソードは、
「言葉を超えた事象がある」ことが認められるとともに、それを言葉で伝達することの困難さを物語っていると言えます。
ある意味、人間が作り出してきた思想や哲学や文学といった分野のものは、「言葉を超えていること」をいかに言葉にしていくかということの闘いの積み重ねであったというふうに考えられなくもありません。

「言葉を超えている」というと何かたいそうなことのように思われるかもしれません。
確かにそういった形而上的な、あるいは超常的な、はたまたオカルティックな事象もあるかもしれませんが、
極く素朴に、目の前にモノ(このコップ)が在るという単純な事態にしてからが、“言葉”からすれば、「言葉を超えている事態」とも言えます。
自分とモノとの関係をそういうふうに見たときに、言葉とは何なのかということが、急にわからなくなってきたりはしませんか?


コミュニケーションについて(4) sasayama URL

2017/06/14 (Wed) 18:01:12

言葉の場合は、文(ことば)の一義的な理解は、その文が書かれた(発語された)コンテクスト(文脈)の渦中にあれば、比較的容易になされます。
しかしコンテクストから切り離されて自立すると、多義的な解釈が発生してきます。
文(ことば)がこのように多義的に受け止められこととか、意味を一義的に決定できないこととかについて、一部の言語学者はこれを「言語の謎」とか言ってるそうですが、
私などには、文が多義的な意味を持つのは、当然であるように思います。
それを「言語の謎」と見なすよりも、その多義性を味わうことの方が、私にとってはインタレストなことであるように思われるのです。

文を書くということは、その文にとってのコンテクスト(文脈)を創っていくことと見ることもできます。
なので複数の文が集まってできる文章の中では、ひとつひとつの文の意味はかなりな程度まで一義的に解釈できるでしょう。
しかし、全体の文章はどうかということになると、それhそれでより複雑な多義的時空を形成することになるかもしれません。
文章を読むということは、文意をできるだけ正確に受け止めるよう努力することを前提とした上で、
その上でなお、文章の多義的な世界を愉しむということがあるのです。

そもそも、文の書き手が読み手に対して、一義的な理解を求めるとはどういうことでしょうか。
それは、私の意図するところを、読み手である相手(他者)に、一義的に理解することを強要するということであって、ここには「書く―読む」ことの間の一種の権力関係のようなものが、前提にされているような気がします。
すなわち、主権は「書き手」の方にあって、「読み手」は「書き手」の意向を正しく読み取るべきである、というような関係ですね。
それが「読む」ということの意義だと、これまでされてきたと言えるかもしれません。
しかしながら文(章)というものは、むしろ他者の「読み」方によって新たな世界が作り出されていくような、その原資を提供するものとして意味付けすることができないだろうか、というようなことをふと考えてみたりする今日この頃です。


コミュニケーションについて(3) sasayama URL

2017/06/07 (Wed) 17:25:05


『多摩美術研究』という研究誌の第2号(2013年刊)に掲載されている中田ナオトさんの論文「複製をめぐるひらめきの置換」を興味深く読みました。
中田さんはこれまでの活動の中で、「超普通」とか「やきこと(やきものの“もの”を“こと”に置き換えた言葉)」とか「陶光画」とかの新語(新概念)を次々と作り出しているユニークな陶芸家です。
この論文では自分の陶芸創作の方法を「置き換え」という言葉をキーワードにして論じています。「作り出すこととは、他の何かに置き換えて解釈することである」というのが、基本的な考え方です。

「置き換え」という言葉を見て最初は記号論だなと先入観をもってしまうのですが、
読み進めていくと、確かに記号論ではあるけれども「置き換え」という言葉を使うことで、創作(伝達)の真相に手触り感覚で触れられるようなところがあって、味わい深いものがあります。

言われてみれば、表現というのはどんなものでも「置き換え」作業なんですね。
自分が言いたいと思っていること、心の中で感じていることを、言葉や絵や音に「置き換え」て“作品”と呼ばれるものにしているのが表現ということです。
表現ということをそのように見なしてみると、作品は「言いたいと思っていることや心の中で感じていること」そのものではなく、それを別なもので「置き換え」たものです。
「言葉では伝えられないから絵で表現した」という場合にも、では絵が心の内をそのまま伝えているかというとそうでもなく、やはりヴィジュアルに「置き換え」て客観化しているわけです。
そこには「言いたいと思っていることや心の中で感じていること」と作品との間に、多かれ少なかれなにがしかのズレが発生するようです。

このズレをどう受け止めるかという問題がありそうですが、私はこのズレが、言葉や表現されたものに対する解釈の多義性を産み出す要因になっていると考えます。
つまり解釈の可能性が多様にあり得、ゆえに受け止める人によってさまざまな解釈が成り立ち、作者への評価も様々に論じられたりするわけです。
このことを、「自分の言いたいことが伝わらない」とか「理解されない」と悲観するよりも、さまざまに解釈される在り様そのものが作品の内容であるというふうに考えるほうが楽しいのではないでしょうか。
そしてそもそも自分と他者の間に交わされるコミュニケーションとはそういうものではないかという考え方もありえるわけですね。

コミュニケーションについて(2) sasayama URL

2017/06/01 (Thu) 17:26:14


「文(言葉)の意味は多義的な解釈を含む」のですが、「文は一義的に意味を伝えようとする」と思い込んできたのが、これまでの私たちでした。
それが原因でいろいろと誤解が発生することは避けることができませんでしたし、どれが正しい解釈かについての議論、口論が免れなかったのです。
また、文の意味が一義的に確定されるとそれ以外の解釈は排斥され、間違いだときめつけられることになります。
さらに、自分の内的感情を言葉にするに当たっても、それが正しい表現かどうかということに思い煩わされることになるわけです。
言葉でどう言い表しても、自分の気持ちを正確に言い得ていないという感覚に捉われるのも、文は意味を一義的に伝えるためのもの、という思いに捉われているからと言えるでしょう。

「文は意味を一義的に伝えようとする」という思い込みを、人はなぜ持っているのでしょうか?
そこには人類の文明史を遡って検討していく必要のある問題が横たわっているように思われます(たとえば、人間の想像力を管理して一定の方向に向かわせるため、とか)。
そういったことをテーマ化している哲学者や言語学者もいますが、ここでは触れずにおきます。

言葉はそれ自体は多義的なメディアであることを認めましょう。
多義的な中から意味がひとつに絞られていくのは、それが発せられる状況が伴っていて、その状況(コンテクストと言ったりします)の中で言葉が解釈されるからです。
ある具体的なコンテクストの中では、無言であっても意思が伝わることがあります。
言葉はそれに顕在的な形を与える役割を果たすわけです。

しかし他方で、コンテクストを伴わない言葉(文)があります。
私たちが日常的に接する言葉(文)は、むしろコンテクストから切り離されて自存していることの方が多いかも分かりません(活字を読む人は特にそうでしょう)。
そしてそちらのほうにこそ言葉(文)のはたらきの本質があるとも言えそうです。

井上まさじ展報告[吉田] sasayama URL

2017/05/28 (Sun) 10:59:19

吉田麻未さん(第1回「根源へ展」出品者)から“近況報告”がありました。ここに掲載させてもらいます。

井上まさじ個展 2017年4-5月

今年も札幌のギャラリーミヤシタにて、井上まさじ個展を観てきました。
今年の作品に感じた変化は、画面に有機的な印象が強いことでした。
ここ数年の作品の印象は、広大な大地や雪氷、岩石など、自然現象のなかでも無機的な物理現象をイメージさせるものが多かったように思います。
しかし、今回のメインの四作やいくつかの作品には、井上まさじ氏のペンの仕事に見るような揺らぎが比較的強くありました。
物理現象に微生物や動物の気配が加わったかのようです。

詳しく手法を伺うと、今年はハサミ使ってボール紙を切り、たくさん用意したそのパーツを下地に埋め込んだとのこと。
そのひとつひとつが、画面の奥から柔らかな形を生み出していたのでした。
作業場にお伺いして見せていただいた実際のパーツは、様々な厚さのボール紙(日常よく見る食品の紙箱など)をフリーハンドで直径1〜2cm程の円に切り取ったものでした。
切り方は決めきらず自由に切るらしく、このフリーハンドで自由に切るという工程が、今年の作品に大きく影響しているのだと思われます。

ほぼ円というだけで大小も厚みも微妙に異なるその紙は、水分を吸収したり乾燥したりするたび、ほんの僅かな膨張と収縮を繰り返します。
その変化は、非常に目の細かいヤスリをかけた時にだけ手のひらで感じるといいます。
新たな方法を取り入れる時、初めて起こる変化にもすぐさま対応できるのは、膨大な経験が系統樹のように頭の中にストックされているからのようです。
整理されていることで今後できること、できそうなこと(新たなアイデア)が瞬時に見えてくる。
経験の中で凝り固まらずに変化を起こすには、この経験の整理というものもひとつ、重要なのかもしれません。

パネルの上で起こる、ほとんど目には見えない面白い変化(=作者次第で見出される)の種を拾い、目に見えるように導いていく。
その結果として画面上に豊かな色彩や表情が作られ、それがまるで空から見下ろした大地や顕微鏡で覗いた物質など、自然のものを連想させる。
井上まさじ氏の作品は、人が普段目で見ることはできないけれども体感している自然の美しさ、その美しさに通底する部分の可視化に成功していて、それが魅力なのではないかと思います。   (吉田)

画像は「井上まさじ展」DMより

コミュニケーションについて(1) sasayama URL

2017/05/26 (Fri) 16:42:17


ビジュアルの表現者と批評をする人間の間でたまさかに話題になることに、表現者サイドの「言葉にならないことを表現する」に対して、批評サイドはなんとか言葉にしていこうとする、ということがあります。
創作と批評の間には永遠に解決できない確執が存在するのも、このあたりのことが原因になっているようです。
そこで、「言葉にならない」ということと「言葉にする」ということをめぐって、しばらく考えてみたいと思います。

ある事態(たとえば内なる感情)について言葉に表わせないと言われる場合に、それが意味することの一つとして、「言葉に表わそうとあれこれ試みてみたが、どれもしっくり来ない」というようなことがあります。
あれこれ試みたということは、さまざまな文を作ってみたけれどもぴったり来ない、というようなことでしょう。
このことは、ぴったり(しっくり)と来る表現(文)をXとすると、実際に作れた文のどれもXと同じでない(どこかが違っている)ということと考えられます。

またXそのものが、視角を変えたり、時間を置いて見たりした場合に、微妙に変化していくということもあるかと思います。
こういったことは常に起こりうることであって、特別なことではありません。
言語学や文法学では、このことを「一般に文(言葉)の意味は一義的に確定できない」としています。
つまり、「文(言葉)の意味は多義的に解釈され得る」ということです。多義的に解釈できるのが文(言葉)というものですから、それを一義的に確定しようとすると違和感が生じてくるのは、むしろ当然と言えるでしょう。
文の多義的な解釈を楽しむことができれば、人と争うことも少なくなるのではないかという気がします。


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