根源へ

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「知が一箇の事実に関する知となるのは、知が同時にまた批判的でもある場合に、じぶんを問いただし、みずからの起源のかなたへまでさかのぼろうとする場合だけである。」E.レヴィナス『全体性と無限』より
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「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介[2] sasayama URL

2017/09/20 (Wed) 17:44:02

油画3年の吉田百花さんは、「美術と工芸の違い」についての『現代工芸論』の見解をまとめてレポートしてくれました。
美術と工芸の違いを、①目的の違い、②身体感覚の必要性、③素材の価値についての捉え方、④創作上の制約、の4つの観点から論じ、「まとめ」として以下のように結論を出しています。

「美術は(コンセプトが重要だから)コンセプトさえ表現できていれば(そしてその内容が人を変容させるものであれば)何をしても許されるメディアであり、工芸は作家が自身の継承する文化に能動的に自己と他者を関係付けていかなければならないメディアである。しかしその自由度の差は創作メディアとしての優劣の差ではない。美術は自由であるからこそ工芸では不可能な表現が可能であり、工芸は制限の中で研鑽され続けるからこそ美術では成し得ない創作が可能である。」

油画を専攻する学生が美術と工芸の違いを取り上げることは少ないです。
しかも吉田さんのように、「美術とは何か」を別な視点(すなわち工芸という視点)で考えてみようとし、さらに『現代工芸論』の論旨をきちんと抑えた上で論じていこうとする学生はいなかったように思います。

また、今日では美術と工芸の違いよりも両者の区別をなくしていく方向で論じられることが多い中で、区別をしっかりと確認していく姿勢が、私にはより生産的であるように感じられるのですね。
絵を描くことを描写する対象を自分の身体感覚の中に取り込んでいくこととして捉えようとしているらしい(このことについては次の機会に改めて紹介します)吉田さんの問題意何が生まれてくるかが興味深いところです。


画像は2年のときの作品「口の中」(油彩)

「『現代工芸論』から生れてきたものPartⅠ-3」展の出品者紹介 sasayama URL

2017/09/14 (Thu) 17:34:25

多摩美術大学での講義「現代工芸論」の2016年度聴講学生による「『現代工芸論』から生まれてきたもの――根源へ」展の出品者が決まりました。
工芸学科から1人、絵画学科油画コースから3人の計4人で、展覧会は来年の春、銀座のギャルリ・プスで開催を予定しています。
これから出品者を一人づつ、講義およびテキスト『現代工芸論』と各出品者とのかかわりを軸に、紹介していきましょう。

寺松尚美さんは工芸学科ガラス専攻の3年です。
「現代工芸論」のレポートに書いていたことは、工芸の全体は「民衆の生活に即した用の美を目指すもの、国家的事業あるいは権力者のステータスシンボルとして美の究極を追求していくもの、個人による創作、の3つの分野に分けられる」として、そのことを踏まえた上で、「自分が作ろうとしているのは何なのか」を問いかけるものでした。
そしてこれに対して自分で出した答えは、
「これからも工芸作品を作っていく。用の美としてのものも、アートよりのものも作るだろう。その時に自分の気持ちが追いつくように、その工芸のジャンルの良さを引き出せるように制作したい。変化する工芸、考えることを止めずに工芸の美しさを引き出せればと思う」
というものでした。

昔(1970~80年代まで)は、工芸は使えるものを作る分野のモノづくりであって、当時オブジェ工芸を作る人もいましたが、そんなのは工芸ではないとする意見も強くありました。
現代は、そういった区別の仕方にこだわる人は見当たらなくなり、オブジェでも器のものでも自分が作りたいと思うものを作ればいいのだ、と考える人が大勢を占めているように感じられます。
そういう中で寺松さんの考えが特に目新しいというわけではありませんが、
ただ単に「作りたいものを作る」というのではなくて、もともとの「工芸の由来」ということを頭に入れて、その上で「時に応じて器のものもつくるし、アート的な表現のものも作る」と、自分の制作姿勢を反省的に捉えているところが、
実際にものを作っていく上で意識の差というものを生み出すだろうと、私は思います。

自分の創作の方向性を見定めるということですね。
「何を作るのか」という問いを明確に自覚して、苦しみながらでも一歩一歩歩みを進めていく姿勢が、ただ単に「好きだから作る」というのとは違って、「アートとしての工芸」の世界を開いていくだろうと思われます。
寺松さんの制作にはそこのところを注目して見ていきたいと思っています。

写真作品は「柱になる」 ガラスによる造形

“精神性”という言葉について(4) sasayama URL

2017/09/07 (Thu) 16:53:17


“写意”描写においては、画面上に描く線や濃淡は対象をそのまま写すのではなく、画面上に新たな世界を創り出していくことであるから、抽象表現の世界と共通するところがあります。
しかし、抽象表現と異なるところは対象(客観的世界)に向き合って描くということであり、その意味であくまで“写意”であると同時に、とはいえ“写実”ともまた違っているということです。

画面上に描かれる(存在させられる)ものは現実には存在しないものですが、対象と向き合う中から見出されてくるものであるという意味では、ある客観的なリアリティに裏付けられるものと言えます。
したがって、対象の中に何を見出していくかということが、“写意”描写におけるひとつの勝負どころとなると考えることができます。
そして一度見出されればそこがゴールというものでもなくて、見出されてくるものは、日々新たなのではないかと思います。さらに、見出されたものの奥にまた別なものが見え隠れし始める、というようなことが起こってきたりもします。
かくして、対象に向き合うということが延々と続いていく、それもまた「絵を描く」ということのひとつの意味であろうと思うのです。

対象の世界を仮に“自然的世界”に設定する。事実、東アジアの伝統絵画の多くはこの“自然的世界”に向き合うことの中から、産出されてきたのでした。
そして“描かれた世界”は人為の世界に他なりませんが、しかしいわば“もうひとつの自然的世界”とも言いうるものです。
言い換えれば、眼前のリアルな自然的世界を画面上に置き換えていった“もうひとつの自然的世界”です。
このように、リアルな自然的世界に対応する“もうひとつの自然的世界”を、私は“精神”と呼びたいと思います。

このような“精神”は、リアルな自然的世界に対峙しつつそこに見出されていく“もうひとつの世界”を日々更新し、そしてそのことを通して自らを養成していくような在り方をする世界です。

立派な精神の持ち主が“いいもの”を創れるとは限りません。“精神”は日々の更新を通して育てていくものであり、それは生きている限り続いていくものであると考えます。


“精神性”という言葉について(3) sasayama URL

2017/08/31 (Thu) 17:43:50


“写意”とはつまり“意を写す”ということで“実(対象)を写す”ということではない。
具体的に言えば、もの(対象)に接して“感じたことを表す”ということです。
しかし“感じたことを表す”といっても、初心者にはこれがムズカシイんですね。

よく小学生ぐらいの子供に、絵でも作文でも「感じたままを描け(書け)ばいいんだ」と指導される先生がおられます。
私自身、小学生の時に先生にそう言われることがありましたが、
作文でも「遠足に行きました。楽しかったです。終わり。」程度の文章しか書けませんでした。
「楽しい」と感じたことは確かだから「楽しい」と書いておしまいだったわけです。
それ以上、どう書いていいのかわかりませんでした。

自分の心の動きを表すには、人の話を聞いたり文章を読んだりして、「こういう心の動きは、こういう言葉を使って、こういうふうに書けばいいんだな」という経験(言葉のデータ)をたくさん積んで、それを自分で試みてみて、そういうことを繰り返していって、だんだんと長い文章が書けるようになっていったわけです、私の場合。
つまり、「感じたままを書く」には言葉の使い方や作文法というのを覚えて、「心の動きを言葉に置き換えていく」という訓練を繰り返していかなければいけなかったのです。

絵を描くことも結局同じことで、ただ紙の上に無闇に線を引いたところで、その線が自分の「感じたまま」を表しているのかどうかはわかりません。
「対象となるものに接して自分が感じたこと」を線や色や濃淡で表すということは、言葉で表現するよりも何倍も難しいことであるように私には感じられます。
「何を感じているのか」を問うことは、難しく言えば反省的な認識作用であって、それを白い紙の上に線で表すとなると、その反省的な認識作用を更に超えて行かなければ実現できないところがあります。
言葉であれば、反省的な認識作用をそのまま言葉にしていけばいいだけなわけですから。
幼児はみな絵の天才ですが、認識作用にまだ反省的なワンクッションが入らないので、手や身体を動かすことは彼の“自然”と一致しているわけです。
それが反省的な認識作用が育ってくるにつれて大人になっていくとともに、絵の天才は消え失せていくようです。

自意識が芽生えてきてからの絵を描くということは、絵を描くことの再スタートになります。
感じたことを形にしていくことは、発語・作文訓練と同じように、日々の訓練を積み重ねていく以外の何者でもないと私は思います。


”精神性”という言葉について(2) sasayama URL

2017/08/24 (Thu) 16:00:55

絵の中では“線”はなんらかのはたらきを有しますが、西洋の写実の考え方では“線”は現実の世界に実体としては存在しないので、最終的には消されていきます。
しかし東アジアの伝統的な絵画技法では線を消すことができませんし、特に水墨画ではいったん画面の上に描いてしまったら、絵の中に実在するものになります。
そうすると実景を描いている場合でも、絵の中に描かれているものは実景とは異なった、もうひとつの世界を描いている、あるいは新たに創っていると考えることも可能であるわけですね。

私自身ずうっと西洋の写実の考え方に拘束されていたので、画面上に線を描くことの意味をどう考えればいいのか、突き詰めたところでは分からないでいました。
毛筆で墨の絵を描く場合でも、モノの形を設定するために線を描くと、その線をどう意味づけするのかというところがわからなくて、いわば「線がひけない」でいたわけです。
しかし最近、「描かれた線は、それ自体で画面上のひとつの存在である」と考えることにしたときから、西洋的写実の拘束感から解放されたような感覚が得られました。
画面上に線を描けば、そこから「絵を描くことが始まる」と、そういうふうに考えていいのだと思えるようになったのです。
(ここでは抽象絵画のことは視野に入れていません。)

今更何を言ってるかと言われるかもしれませんが、これは私にとっては、“コロンブスの卵”的な発見となりました。
描く対象を目の前において、その対象を描こうとするのですが、しかしその対象のリアルな形に囚われることはないということです。これが東アジアの伝統的絵画の基本的な成り立ち方であり、その意味では、一見、対象の形をリアルに写しているように見えても、西洋の写実とは絵の成り立ち方がまったく異なっているのですね。
その決定的な違いを表すのが“写意”という言葉です。



“精神性”という言葉について(1) sasayama URL

2017/08/18 (Fri) 17:20:07


“精神性”という言葉について少し考えてみたいと思います。

アート系創作の解説文や批評文ではこの言葉を見かけることがしょっちゅうあります(私自身もたまに使います)が、
意味を確定できないこの曖昧模糊とした言葉は、私自身はできれば使わないで済ませたいと、これまで思ってきました。
しかし便利な言葉ではあって、他に適当な言葉がどうしても見つからない時には、“精神性(的)”という言葉をやむをえず使って、その場をしのいだりすることがあります。

この言葉は、特に我が国の伝統工芸の世界や、日本画・水墨画・書作の世界で頻出しますが、
これら東アジアの伝統アート系のものを論じる場合はなお一層“精神性”という言葉は使わないでいたいというのが、私のかねてからの作文方針とすることろでした。
それにしてもなぜ東アジアのアート系の創作といわゆる“精神主義”とがつながりやすいのか、
私自身の中で正確に説明することができないできたことも確かです。

しかし私が主宰する「かたち塾」の会報誌の今年の6月に発行したNo.11号では、水墨画の成り立ちを説明する文章の中で、
“精神”という言葉を、ある意味では積極的な意味合いを見出したいという思いで、使いました。
そこでは次のように書いたのです。
「西洋的写実の考え方に立った場合の「自然界にはないもの」は、線のほかに濃淡(あるのはすべて固有色)、空白(白いスペースは白という色)」などです。それら「西洋的写実の考え方に立った場合の自然界にないもの」は、水墨画の世界では実在する。そしてそういった要素(線、濃淡、空白)を使って“自然”を表現するのが水墨画(東アジアの絵画の伝統)であるということです。
 水墨画の成り立ちは“写意”を基本とするので、上記の“自然”という言葉は“精神”という言葉に置き換えることができます。東アジアの造形表現においては、“自然”と“精神”が交換可能であるように感じられる(見える)のはなぜか? ということもこれでやっと納得できたのです。」

上記引用文中、“線、濃淡、空白は「自然界には無いもの」”とか、“水墨画の成り立ちは“写意”を基本とする」とか、気になるセンテンスがあるかと思いますが、
ここでは、““自然”という言葉は“精神”という言葉に置き換えることができる“というところをフォーカスしておきます。
つまり、“自然”という言葉に置き換えうる何事かを“精神”という言葉で表わすということですね。

“精神”という言葉の意味をこういうふうに捉えてみることができるということに、気がついたわけです。



夏休み sasayama URL

2017/08/02 (Wed) 17:35:15



今週は夏休み中。


“空”とは?――言語ディスプレーと論理学 sasayama URL

2017/07/26 (Wed) 11:43:08

言語ディスプレーの話を、今回は論理学の話題と絡めて書いてみます。

ある論理学入門書の中に次のような命題に出会いました。
「空集合の情報量は情報空間全体になる。」
何気なく読んでみて、ン?と思わせるものがある命題です。
“空”というのは普通“何もない”という意味に受け取れるので、空集合の情報量とか、情報空間全体という言葉とすんなりとつながりません。

その本の中では上記の命題の証明がきちんとなされていて――その証明の仕方を通して、なるほど論理学的な思考とはこういうものか、と思わせるところがあります――決して逆説的な表現をしているわけではありません。
とはいえその証明方法をすんなりと受け入れるには、論理学的な思考方法に多少なりとも慣れている必要があるかとも思います。

でも直感的な判断のレベルでよくよく考えてみると、上記の命題は至極当たり前なことを言っているとも言えるのです。
“空集合”というのは情報空間の部分集合として認められる集合で、情報空間全体との関係は、「空集合+情報空間全体=情報空間全体」というふうに表すことができます。
つまり空集合はnothingということですが、そうすると、情報空間全体の情報量はそのnothingが持っている情報量とみなすこともできるわけではないですか(分かります?)。

たとえば「“空”とは何か」という問いに対して、いろいろな解答の試みがなされるとして、そのどれもが「答えとしてパーフェクトではない」とした場合に、
いろいろに試みられた、しかしパーフェクトではない解答の全体は“空”に関する情報空間の全体と見なすことができます。
(もしパーフェクトな解答が提示されたとすると、その解答ひとつで情報空間全体の情報量ということになります。)
それは同時にnothing(空集合)の情報量とも見なせるわけですね。

いろいろな解答の試みの全体は“空”をめぐる言語ディスプレーの全体であり、その言語ディスプレーの全体は“空”をめぐる情報空間の全体にほかならないということになります。


言語ディスプレーとしての公案 sasayama URL

2017/07/19 (Wed) 16:41:51


言語ディスプレーの考え方は現代詩なんかを読む場合にかなり効果がありそうですが、
それ以上に効果的なのは、禅仏教でよく話題になる、いわゆる公案と呼ばれている言語表現に向かい合う場合です。
たとえば、「父母未生以前の本来の面目は何か」(自分を生んだ父母が生まれる前の自分は何者か)という公案がりますが、
この公案を考えた人は何が言いたいのか、などということを考えると、公案に仕掛けられた罠に陥って、「わけがわからない」ということになりかねません。

公案を解くのは禅仏教における修行法の一つだそうで、要するにそこに提示されている言葉に囚われない境地が目指されているわけです。
言葉に囚われているうちは、正しい(と判断される)見解(けんげ。公案に対する解答)を返すことができません。
公案の意味を考えるなどということは、言葉に囚われた狭い世界に生きていることを意味します。

上記の公案は、夏目漱石の小説『門』のなかに出てくるのでよく知られています。
小説では、父母未生の公案に対する主人公の見解(具体的には書かれていない)を、老師は「もっと、ぎろりとした所を持ってこなければ駄目だ」と言って一蹴します。
つまり、これが正解、という見解はないのです。
どう答えてもいい(つまり含意は多様である)のですが、しかし「ぎろり」としている必要があります。
そこがいわば公案をひとつの言語ディスプレーとした、言葉のやりとりの妙、すなわち公案というひとつの文化になるわけですね。

そして小説では、登場人物がこういう発言をしています。
「頭の巓辺(てっぺん)から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するのでございます。」
言葉をどう解釈するかということよりも、ディスプレーされた言葉を身体全体に充実させるところからおのずから血路が開けてくる(見解が得られる)、という考え方でしょう。
そういうのが禅仏教的なコミュニケーションの考え方なのだと思います。


龍樹『中論』への言語ディスプレー的アプローチ sasayama URL

2017/07/12 (Wed) 16:51:59

前々回で大乗仏教系における真俗二諦の話を出しましたが、ここでもう一度この話題にふれておきます。

大乗仏教の思想的な原点となる仏典としては、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』というのがよく知られています。
“空”の思想を説いた仏典と言われており、内容的にははなはだ難解です。
直接“空”について論及している箇所では、龍珠の論敵からの反論が最初にあって、それに応える形で“空”の何たるかが論じられています。

論敵が言うには、“空”はこの世の現象のすべてを実体としては存在しないものとして否定するのであるから、煩悩とか四諦(苦集滅道)八正道とか涅槃などの仏教思想を構成する諸概念も否定されるし、そもそも龍樹の唱える「“空”の思想」自体も否定されることになるではないか、と。
これに対して龍樹は、それはあなたが“空”ということを正しく理解していないからそう思うのだと反論します。
この反論の冒頭の箇所で真俗二諦の説が論じられ、さらに、“空”とは何かということが論じられていきます。
ここでの竜樹の論法は以下のように要約できます。すなわち
「一切が空でなければ、生は存在しない、滅も存在しない、四つの聖なる真理(苦集滅道)も存在しないということになるだろう。」

この要約を注意して読んでください。何か逆説的な言い方をしているように思いませんか?
言い方を変えると「一切は空であるから生がある、滅がある、四つの聖なる真理がある」となりますね。
「一切が空である」ということと「生がある、滅がある、四つの聖なる真理がある」こととが両立しているわけです。
なぜそうなるのかというところに“空”の思想の核心がある、その核心が“中”という言葉で表されるところのものです。

『中論』は非常に難解な哲学書です。龍樹の意図に即して読もうとすると一層難解に感じられてきます。
しかし私はここで提案するのですが、『中論』の言葉を“言語ディスプレー”として眺めるということです。
龍樹の論をなしている言葉は、真俗二諦のその“中”間に置かれているのですね。
それが『中論』の難解さの一つの原因と思われます。
真俗(真理と方便)あるいは正反の二義性の中で言葉を受け入れる。
そういう感覚で読んでいくと腑に落ちてくるものがあります。

特にサンスクリット原文で読む場合には、この方法が有効であるようです。


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